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東出昌大と唐田えりかが主演と聞くと、何やらスキャンダラスな響きを持ってしまうが、そんなことはお構いなしに、この『寝ても覚めても』は傑作である。

というより『寝ても覚めても』を観れば、スキャンダルをあげつらう気も薄れるに違いない。

『寝ても覚めても』とは


『寝ても覚めても』(英題:Asako I & II)は2018年の日本映画だ。

監督は国内外から高い関心を集めている濱口竜介。2015年には5時間を超える大作『ハッピーアワー』を発表して話題となった濱口監督だが、本作で待望の商業映画デビューを果たすことになった。

主演はデビュー作『桐島、部活止めるってよ』などで知られる東出昌大(一人二役)と、オーディションで抜擢された気鋭の唐田えりか。その他に瀬戸康史や伊藤沙莉らがキャストに名を連ねている。

役者経験が少ない唐田えりかを選んだあたりが、いかにも濱口竜介らしい。というのも、上述の『ハッピーアワー』では神戸のワークショップに参加した一般人と主演に迎え、結果的にロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を獲得しているからだ。

素朴な演技のなかに一瞬のきらめきを発掘する才が、この作品『寝ても覚めても』においても発揮されているのである。

ちなみに、原作は芥川賞作家・柴崎友香による同名小説となっている。プロットの大半はこの原作に従っているが、東日本大震災をめぐる場面が挿入されるなど、ところどころで濱口監督のオリジナリティが光っている。

また、tofubeatsが音楽を担当していることも押さえておきたい。主題歌「RIVER」の歌詞は、映画の世界観に相応しいようにも、あえて裏切ってみせているようにも思える。

寝ても覚めても愛は
とめどなく流れる
なぞるたびに線は
太く 深く 強く
空から降った雫を
集め今たどり着いたよ

(中略)
ふたりの愛は
流れる川のようです
とぎれることないけど
つかめない
   ―tofubeats「RIVER」

『寝ても覚めても』あらすじ

大阪で暮らす朝子(唐田えりか)は、たまたま訪れた写真展の帰り道、謎めいた男・ばく(東出昌大)と出会う。

一目見た瞬間に恋に落ちる二人。友人・春代の心配をよそに、朝子は彼との関係を深めていく。

だが、出会いと同じように別れも唐突にやって来る。いつも「かならず帰ってくる」と朝子に言い聞かせていた麦だったが、ある日、彼女の前から姿を消したのである。

それから2年後、朝子は東京の喫茶店で働いていた。そこで出会ったのは、信じられないほどに麦とよく似た男(東出昌大)だった。彼は亮平という名前であり、麦とは出自も無関係。しかし、朝子はどうしてもそれを受け入れることができない。

はじめは亮平を避けようとしていた朝子だったが、やがては彼の優しさに負け、付き合うことになるのだった。

さらに5年が経ち、朝子と亮平は幸せな毎日を送っていた。そんな折、彼女は偶然にも再開した友人・春代から意外な話を聞かされる。

姿を消していた麦が、いつの間にか芸能界デビューしていたのだ。かつての恋人を思い出した朝子は、次第に胸騒ぎを覚えていくのだった。

『寝ても覚めても』感想・解説

濱口竜介というのは本当に"美徳のよろめき"を演出するのが上手い。前作『ハッピーアワー』も不倫へと走ってしまう女性たちの物語だったが、あえて演技経験の乏しい役者を使うことで、どこにでもいる人間が一線を踏み越えてしまう瞬間というものを巧みに捉えてみせた。

そう、誰だって不倫を働くことが正しいとは思っていない。だが、それを分かっていながらも、実際には多くの人がパートナーを裏切ってしまう。真面目に法や規則を守っていたはずの人間が、ふとした瞬間にそうなってしまうのである。

なぜなら、そもそも恋愛とは社会を超えたところに存在するからだ。人が人を好きになることに、説明できる理由なんてない。慣習や文化とは関係のないところで、本来的な愛は成立してしまう。だから、それを社会の規則で縛り付けることなど困難なのである。

まさにそれは、朝子と麦とが電撃的な恋に落ちたように。

朝子の心は二人のあいだで揺れ動く

冒頭で朝子が鑑賞している双子の写真(牛腸茂雄「SELF AND OTHERS」)が、この作品の主題を予感させてくれるだろう。同じ顔をした人間を前にしたとき、不意に覚える感情のざわめきだ。麦と亮平、二人の男のあいだで朝子の心は揺れ動く。

だが、一度目の恋と二度目の恋はまったく別物である。最初に出会った麦との恋は、唐突に始まり、唐突に終わる。二人が「爆竹」の鳴り響くなかキスをした光景を思い出して欲しい。その火花は、まさに衝動的で儚い関係であったことを象徴している。

2年後に出会った亮平との恋はもっと複雑だ。そこにはつねに彼とそっくりな麦の影がある。朝子が「寝ても覚めても」考えてしまうのは、どうしても振り切ることができない以前の恋愛なのだろう。なにせ麦と付き合っていなければ、亮平を好きになることはなかったのだから。

そこで象徴的に描かれていたのは何だっただろうか? 

東日本大震災である。

なぜ『寝ても覚めても』では震災が描かれたのか

余談となるが、濱口監督は2011年から2013年にかけて、現地の被災者の声を集めた「東北記録映画三部作」を制作している。そうした背景もあり、原作にはない要素として震災の場面を取り入れたのだろう。

朝子の友人・マヤが出演する舞台を見に来た亮平は、そこで東日本大震災に遭うことになる。街はパニックとなり、路肩では携帯を手にした女性が泣き崩れている。

電車も動かない東京の街を亮平は歩いて会社へ戻り、そこで偶然にも朝子と再会する。そして二人は抱き合い、お互いの気持ちを確かめるのだ。

ここには、先ほど述べた「爆竹」とはまったく異なるイメージが表現されている。たしかに爆竹も震災も突発的なものであり、実際に朝子は麦や亮平と二度も偶然の出会いを果たしている。だが、そこには決定的な差異があるのだ。

それは、震災には"それ以後"が存在するということである。本震が起きた直後、マヤは「また揺れてる」と話していた。それから5年後においても、朝子と亮平は月に一度のボランティアで東北に足を運んでいる。

つまり、麦との瞬間的な関係を暗示していた「爆竹」に対して、「震災」というモチーフは亮平との持続的な関係を暗示しているのである。

揺れが反復される恐怖

逆にいえば、濱口監督は朝子と亮平の関係を通して、東日本大震災という出来事が持続していることを問題化した、と考えることもできるだろう。間違いなく、監督のまなざしは現在でも東北へと向けられている。震災から9年が経過し、忘却の危機に陥っているなかで、なおも東北と向き合う必要性を示しているのである。

少し話を戻そう。突発的な出来事に過ぎなかった麦とは違い、亮平との恋愛には"それ以後"が存在する。だが、それは同時に"余震"の恐怖とともに暮らすことを意味している。まるでトラウマのように、朝子は麦が迎えにやって来るという恐怖に怯えるだろう。

なぜなら、もしも彼が迎えに来れば、朝子は麦についていくしかないことを分かっているからだ。

分かってはいるが、それに抗えないのである。ふたたび揺れがやって来ること、つまりトラウマが反復されることを理解してはいても、ぜひその目で確かめてほしい。

やがて、朝子の恐れは現実のものとなる。物語のクライマックスについては、もうこれ以上語る必要はないだろう。

まとめ:叩くのではなく、恐れるということ

この『寝ても覚めても』という作品は、同じ姿をした二人の男のあいだで揺れる女性の物語だった。そして朝子と亮平の恋愛関係には、震災という、もうひとつの主題が重なり合っている。

私たちは"以後"の時代を生きている。問題は持続しているのだ。

ところで、この作品の洗礼を受けた私たちは、他人の不倫をあげつらうことができるだろうか。たしかに、それは愚かな行為であるに違いない。だが、その愚かさは私たち全員のなかに伏在しているものだ。そうだとすれば、他人の行為を遠くから揶揄するのではなく、むしろ自分もそうなってしまいかねないことを恐れるべきではないだろうか。

少なくとも『寝ても覚めても』には、その可能性が含まれている気がしてならない。

『寝ても覚めても』の次に観るなら:『めまい』


アルフレッド・ヒッチコックの代表作『めまい』(1958年)。こちらは"うり二人の男"ではなく、"うり二つの女"を追いかける男の話だ。

元刑事である主人公の前に(ジェームズ・ステュアート)、死んだ女とそっくりの人物(キム・ノヴァク)があらわれるという物語。ヒッチコックの幻惑的なショットの数々が、後世に与えた影響は計り知れない。