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カイジ ファイナルゲーム
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 ささやかながら『カイジ ファイナルゲーム』の結末に触れています。

実写映画『カイジ』を成立させていたのは、藤原竜也の「悪魔的」演技の過剰さにほかならない。たしかに、それは一種の戯画であるのだが、まさに戯画であるからこそ本作は「カイジ」であったのだ。

シリーズの過去作品で主人公カイジを苦しめた巨大企業「帝愛グループ」の存在も、恐ろしいほどに現実社会のカリカチュアであったし、そこに登場する会長の兵藤や、幹部の利根川といった悪党たちも、やはり笑ってしまうほど過剰なのである。

しかし、本作『カイジ ファイナルゲーム』に兵藤や利根川の姿は見られない。それどころか、あれほどまでにカイジの敵として立ちはだかった帝愛グループの存在自体が、限りなく影をひそめているのだ。

もちろん、そこにどんな裏事情があったのかは知らない。たしかに兵藤を演じた佐藤慶はこの世を去ったのだし、利根川を演じた香川照之もオファーを断る事情があったのかもしれない。

だが、何にせよ本作に帝愛グループが登場する余地はなかっただろう。というのも、そこで描かれるのは日本全土がすでに地下帝国(帝愛の労働施設)と化した未来であるからだ。

東京オリンピック後の不況によって、いたる場所に失業者があふれている日本。黒崎(吉田鋼太郎)という男が経営する派遣会社は給料をピンハネし、廃れた街では「バベルの塔」なる倫理を欠いたゲームが行われている。

前作から9年を隔てた『カイジ ファイナルゲーム』の世界で、もはや帝愛は主人公の敵として不適格なのである。

「ファイナルゲームの規則」を成立させているのは何か?

こうして帝愛グループという過剰な悪が後景化した一方で、新たに登場したのが首相秘書官の高倉だ。そう、彼こそがカイジの新たな敵であり、いわば第二の利根川である。

しかし、実のところ高倉と利根川のあいだには大きな径庭が存在する。しかも、その径庭は物語の致命的な弱点として、あわや『カイジ ファイナルゲーム』を瓦解させてしまいかねないのである。

それはいったいどういうことだろうか?

忘れてはならないのは、この『カイジ』という作品が徹頭徹尾「ゲーム」を主題としている点にある。これまで、それは「限定ジャンケン」であり「Eカード」であり、巨大パチンコ「沼」であったはずだ。

言うまでもなく、あらゆるゲームには規則が存在する。これまで、ルールを無視してカイジが戦ったことなど一度もない。

そう、カイジはいつも規則に従ってきた。従順なまでにルールに則り、しかしルールの隙間をつくようにして相手と戦ってきたのだ。

その相手はどうだろうか? シリーズ第一作『カイジ 人生逆転ゲーム』の利根川(香川照之)はなるほど「Eカード」で卑劣なイカサマを用いていたし、第二作『カイジ 人生奪回ゲーム』の一条(伊勢谷友介)は巨大パチンコ「沼」で不正を働いていた。

つまりカイジの宿敵である帝愛グループは、企業コンプライアンスを否定しているだけでなく、こうしたゲームの規則すらも否定しているのである。

だが、ここでひとつの疑問が浮かび上がる。なぜゲームの規則を否定する利根川や一条は、カイジに暴力を振るわないのか。彼らが法であるというのなら、敗北した腹いせになぜ手を上げようとしないのか。

すでにシリーズを観ている者なら分かるように、その理由は帝愛の会長である兵藤がいるからにほかならない。利根川や一条にとっては兵藤こそが絶対的な法であり、彼らがゲームを行う上での見えない裁定者なのである。

つまり、悪の権化であるはずの兵藤がこれまでカイジをゲームの正式な勝者として認めてきたのだ。いわば逆説的な存在として、彼は『カイジ』という映画を成立させてきたのである。

誰が裁定者となるべきなのだろうか?

ここまでくれば、話の筋は見えてくるかもしれない。つまるところ『カイジ ファイナルゲーム』という物語には、もはや裁定者が存在しないのである。カイジの敵、高倉は首相秘書官として日本を牛耳っている。そして見る限りでは、この法治国家は機能不全に陥っているのだ。

最高権力者・高倉より高位には誰も立つことができない。ゲームの規則は成立しないのだ。彼の行う「ゴールドジャンケン」が空虚に見えるのはそのためである。「なぜこの期に及んでゲームで決着をつけようとするのか?」と思わざるを得ない。これまでは帝愛グループという冗談のような舞台装置が正当化していたが、その装置は本作に登場しない。もはや物語の枠組み自体が崩れかけているといっても過言ではないのである。

とはいえ、ただひとつの救いとなったのは倫理の問題である。そもそもゲームの規則が成立しない以上、この物語は倫理を裁定者の代わりとするよりほかにないのだ。事実として、黒崎(吉田鋼太郎)の行ったゲーム「人間秤」では、家族や友人といった絆が重要視されていた。あの秤は、金塊ではなく、彼らのモラルを乗せていると言い換えることもできるだろう。

映画のラストで高倉が日本という国の行く末を案じたのも、彼がモラルに従う人間だったことの表現である。それはカイジの倫理とは相いれなかったものの、彼が「ゴールドジャンケン」なるゲームを行ったことの正当性を取り繕うには役立った。

そういった意味では、たしかに本作は「ファイナルゲーム」であったのだし、シリーズ完結編に相応しいといえる。そもそも第一作『人生逆転ゲーム』において、カイジは友人の借金を肩代わりする形で、帝愛の主宰するギャンブルの世界へ足を踏み入れたのだった。モラルは金へと変わり、しかし仲間との友情を糧にカイジは勝利し続け、最後にまたモラルへと戻ってくるのである。

問題は、この転向を観客がどう受け入れるかということに帰着する。「カイジの魅力は知的な策を弄してギャンブルに勝利することにあったはずなのに、それが安っぽいメロドラマに堕ちてしまった」と嘆く者がいたとしても不思議ではない。それが佐藤東弥という監督の流儀なのだ、と言われればそれまでなのかもしれない。

いずれにせよ、これで『カイジ』シリーズの歴史に終止符が打たれたのである。