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『カレンの台所』書評:滝沢カレンの小宇宙——「包みたい欲が強いキャベツの男気」

『カレンの台所』概要

滝沢カレン『カレンの台所』サンクチュアリ出版、2020年。

滝沢カレン
1992年東京生まれ。
2008年、モデルデビュー。現在は、モデル以外にもMC、女優と幅広く活躍。

本書著者紹介より

『カレンの台所』書評

粛々とした自粛生活を続けていると、いくら出不精でも気が滅入ってくる。朝のランニングと昼の買い物以外は、どこに行く当てもなく、重たい空気を吸いながら部屋にこもり、ひねもすパソコンの画面と対峙している。

ふと思い立ったのが先週のことで、普段は買わないような食材を買い込み、少し手の込んだ料理に挑む。のだが、上手くいかない。ハンバーグは"つなぎ"がまずかったのがボロボロと崩れてしまい、無残な姿に。早々にさじを投げ、Amazonで料理本を買いあさる。

滝沢カレン的小宇宙とは何か。それは言葉がロマンチストとリアリストの両側面から作り出される場であり、散文的な"つなぎ"が保持されている、意味の調理場である。

興味深いのは、滝沢カレンの母語が日本語であり、父方のウクライナ語や英語を話すことができない点にある。このことから、バラエティ番組における彼女の立ち位置は、「日本に生まれ育ちながら、日本語が下手なモデル」とされることが多い。

だが、よくよく考えてみると、彼女の日本語はそれほど誤っているわけではない。言い間違いをしているわけではなく、言葉の意味を取り違えているわけでもなく、敬語が不適切なわけでもない。ただひたすらに、表現の仕方が特異なのである。この事実は、ナイジェリア出身であるボビー・オロゴンの、真にカタコトの日本語で笑いを誘うスタンスとは対称的な関係にある。

ありていに言ってしまえば、滝沢カレンの言葉選びは詩的なのである。彼女の言葉は、明示的な意味とは別の方向へと展開している。したがって、その才能はバラエティ番組よりも、真っ当な文章のなかで最も輝きを放つだろう。

『カレンの台所』はレシピ本の体裁をとっているが、正確な分量や手順が記されているわけではない。ここに書かれているのは、滝沢カレンが「登場人物」と呼ぶ食材と、「スタッフ」と呼ぶ調味料と調理道具の共演である。見慣れた台所の上で、思いがけず物語の幕が上がるのだ。

たとえばエビチリは、この小宇宙において慇懃無礼なビジネスの場と化す。ネギを刻むと「海老に発注頼まれていたのかという名刺が大量に作られて」いくのであり、ひるがえって海老は「こんなに名刺あっても困るよというように逃げ」るのだという。皿の上で「真っ赤な夕日」が映えるとき、サラリーマンに扮したエビチリの物語が完成する。

これに対し、ロールキャベツは運命的な恋愛の情景を映し出す。「包まれたい欲の強い乙女なひき肉と、包みたい欲が強いキャベツの男気溢れる」のがロールキャベツであり、そこではケチャップという「愛の赤」が調味料となる。いざ、ひき肉とキャベツが詰め込まれる「合同結婚式」の舞台へ!

と、いった風に放縦な表現が並んでいる本書だが、レシピとしても意外なほどに機能している。なるほど、料理に大切なのは感覚なのか、と妙に納得してしまう。食材の選択は範列的であり、その調理手順が連辞的であるとして、その両者が重なる場所に言語=料理が生まれる。ヤコブソンは詩的言語について「等価の原理を選択の軸から結合の軸へと投影する」ものと定義したが、それは美味しい料理の作り方を意味していたようだ。

考え出すときりがない。滝沢カレンの職業がモデルであることも、記号論としてとらえればどうだろうか。ファッションは範列と連辞が交差する場所に成立する。トップスにシャツを着るか、ブラウスを着るか、トレーナーを着るかという範列と、トップスとボトムス、シューズ、アクセサリーを組み合わせる連辞。モデルとは、何より詩的であることに長けた人種なのかもしれない。

こうしてコロナ禍で家にこもっていると、日常のなかに芸術を求めるようになる。なにせ非日常としての劇場も、ライブハウスも、出会いの場も閉鎖されてしまったのだ。もちろんオンラインで楽しめるものもあるだろうが、こうやって生活に根差した芸術を模索するのも、また一興かもしれない。