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作品のポイント

  • 女性映画の名手ペドロ・アルモドバルの代表作であり、アカデミー外国語映画賞に輝いた。
  • ひたすらに女性の生き様が描き出され、男性的な目線など寸分も入り込む余地がない。
  • 引用されている作品『イヴの総て』と『欲望という名の電車』にも注目。

『オール・アバウト・マイ・マザー』作品概要

映画『オール・アバウト・マイ・マザー』は1999年に公開されました。スペイン巨匠、ペドロ・アルモドバル監督による「女性賛歌三部作」の1作目であり、カンヌ国際映画祭では監督賞、アカデミー賞では外国語映画賞を受賞するなど、同監督の代表作として知られています。

主人公のマヌエラを演じるのはセシリア・ロス。アルモドバル監督とは長年の付き合いであり、初期作品『セクシリア』(82年)や『バチ当たり修道院の最期』(83年)、『グロリアの憂鬱/セックスとドラッグと殺人』(84年)に続けて出演。「女性賛歌三部作」の二作目にあたる『トーク・トゥ・ハー』(02年)や、近作『ペイン・アンド・グローリー』(19年)にも出演しています。

共演として、大女優ウマ・ロッホを演じているのはマリサ・パレデス。こちらもアルモドバル作品の常連であり、『ハイヒール』(91年)や『私の秘密の花』(95年)のほか、『私が、生きる肌』(11年)では家政婦の役で出演しています。その他の作品に、ハイメ・ロサレス監督の『ペトラは静かに対峙する』(18年)など。

また、シスター・ロサを演じた美女はペネロペ・クルス。本作の出演で知名度を上げ、現在では世界的な女優として活躍しています。アルモドバル監督の『ボルベール〈帰郷〉』(06年)で主演を果たしたほか、傑作サスペンス『オープン・ユア・アイズ』(97年)とそのハリウッド・リメイク版『バニラ・スカイ』(01年)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』(11年)などに出演。ウディ・アレン監督『それでも恋するバルセロナ』(08年)ではアカデミー助演女優賞にも輝いています。

事故で息子を失った女性マヌエラが、別れた夫を探してバルセロナへと向かうことに。そこで出会った様々な女性たちと交流を重ねるなかで、喪失を乗り越え、母として再起していく物語。メロドラマ的な構造を持ちながら、女性の普遍的な姿を極北まで突き詰めて描いた名作です。

『オール・アバウト・マイ・マザー』あらすじ

マドリードの病院で臓器移植の手続きを担当しているマヌエラには、もうすぐ17歳になる息子エステバンがいました。迎えた彼の誕生日、二人は『欲望という名の列車』の舞台を観に行きます。しかし、鑑賞が終わって憧れの大女優ウマ・ロッホにサインを貰おうとしたエステバンは、マヌエラの目の前で車に轢かれ、そのまま命を落としてしまいます。

喪の悲しみに暮れるなか、マヌエラは息子の死を別れた夫に伝えるため、単身でバルセロナへと旅立ちます。かつてアマチュア劇団に所属していたマヌエラは、そこで夫のロラと恋に落ち、妊娠した後にひとりマドリードへと逃げてきたのでした。

懐かしいバルセロナの地で、マヌエラは旧友のアグリードと再会を果たします。元売春婦である彼女の仲介により、心優しいシスターのロサと出会ったマヌエラ。紆余曲折を経て、大女優ウマ・ロッホにも巡り合い、彼女の付き人として働くことになります。ウマの共演者で恋人のニナはドラッグ中毒に陥っており、マヌエラはやがて彼女の代役も任されることになります。

一方、ロサの思いがけない妊娠が発覚します。子どもの父親は放蕩生活を続けていたロラであり、ロサは彼によってHIVウイルスに感染していました。命を賭して子どもを産もうとする彼女を、マヌエラは母親代わりに看護することになります。

こうして様々な女性と交流を重ねていく過程で、マヌエラはふたたび希望を取り戻すことになります。

『オール・アバウト・マイ・マザー』解説

主体的な女性像

「女優を演じた女優たち/すべての演ずる女たち/女になった男たち/母になりたい人々」へと捧げられた本作が、女性映画の金字塔と呼べる作品であることに、もはや異論の余地はないでしょう。とはいえ、それは単に主人公のマヌエラが「女性性」を体現しているからではありません。そうではなく、本作で描かれるあらゆるモチーフが、その類まれなる筆致によって、女性の形象をどこまでも描き出しているからです。

先に述べた献辞は、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない/女になるのだ」という言葉を喚起させます。男性中心的な社会のなかで、「女性」というジェンダー的な役割を押し付けられた人々が、いかにして主体性を取り戻すか、ということをボーヴォワールは述べました。アルモドバルという映画作家は、こうした主体的な女性を一貫して描き出そうとしています。

「女性」として社会に規定された人々が、もう一度「女性」の価値を取り戻すこと。そのために、彼女たちは強固な意志を持って行動します(ボーヴォワールに即して言えば、それは実存的なものです)。具体的に言えば、作中の登場人物たちは舞台女優に「なる」のであり、性転換によって女に「なる」のであり、命懸けの出産を経て母親に「なる」のです。『オール・アバウト・マイ・マザー』が何にも増して美しいのは、この「なる」ことの力学が寸分の隙もなく、物語に敷き詰められているからにほかなりません。

『イヴの総て』:女優になるということ

歴史的な引用として、二つの作品を挙げておきます。まず、タイトルの由来にもなっている『イヴの総て』(All About Eve)。ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督による1950年の作品で、アカデミー監督賞にも輝いた名作です。この物語、田舎娘のイブ(アン・バクスター)が、舞台女優として大成していく姿が描かれるのですが、彼女の取る手段がとにかく狡猾極まりない。お涙頂戴の身の上話を武器に、大女優の付き人となるやいなや、演劇関係者に次々と取り入っていき、最後にはその大女優をも踏み台にしてスターへと上りつめるのです。

『オール・アバウト・マイ・マザー』の作中でも、主人公のマヌエラは大女優ウマ・ロッホの付き人となります。アクシデントによって舞台に立ち、ウマとの共演を果たすマヌエラは、たしかに『イヴの総て』のプロットを踏襲しています。

とはいえ、マヌエラのそれは狡猾な計略とは無縁であり、ただ偶然が重なった結果に過ぎません。ここで重要なのは、マヌエラが『イヴの総て』のような女優に「なる」姿を、生前の息子エステバンが思い描いていた点にあります。彼にとって「母」と「女優」のイメージは等価なのです。物語の序盤、マヌエラが大女優ウマの大判ポスターの前に立つショットにおいて、この関係性は見紛うことがないものとなります。

となると、公演後のウマにサインを求めるエステバンの姿にも納得がいきます。そこには、ありし日の母に対する憧憬もあったのでしょう。息子の死後、その遺志に応えるようにして、マヌエラは思いがけず舞台に立ってしまうのです。

『欲望という名の電車』:女として自立すること

その舞台が『欲望という名の電車』です。この作品、言わずと知れたテネシー・ウィリアムズの戯曲であり、1951年にはエリア・カザン監督によって映画化もされています。あらすじを紹介しておくと、主人公はアメリカ南部の名家出身、今は落ちぶれた未亡人のブランチです。財産を失った彼女は、故郷を離れて妹ステラの家に身を寄せるのですが、義弟であるスタンリーは粗野な性格で反りが合わず……といった物語。実はブランチは隠された過去があり、その秘密をスタンリーに暴露され、次第に狂気へと陥ってしまいます。

マヌエラが演じたステラの役柄は、中産階級のブランチと労働者階級のスタンリーの対立に挟まれる存在です。けだし彼女だけが、精神の錯乱したブランチを救うことができる立ち位置にあるのですが、その心は男らしいスタンリーの側から離れることができません。結果的に、物語はブランチの破滅をもって終幕してしまいます。

ひたすらに女性の姿を描き抜いた本作において、唯一、男性的な支配のイメージが描かれているとすれば、それはこの『欲望という名の電車』です。実際、スタンリー役を演じたロラは遊び人で、マヌエラは彼とのあいだに息子エステバンをもうけた後、マドリードへと逃げ出しています。

そう考えると、『オール・アバウト・マイ・マザー』という映画は、この『欲望という名の電車』のあり得たかもしれない結末を示しているように思えます。自立した女性として、ブランチを狂乱から救うことができる、たったひとつの幸福な結末を。

関連作品:『オープニング・ナイト』(1977年)


本文では二つの関連作品を挙げましたが、最後にもうひとつ。ジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』も、本作の下敷きとなっている映画です。

人気舞台女優である主人公が公演を終えると、17歳の少女から熱烈にサインを求められます。ところが、主人公が車から見送った途端に、彼女は交通事故に遭い命を落としてしまうのです。

ここから、主人公は少女の幻影につきまとわれ……と、カサヴェテス作品特有の、スクリーンに裂け目を作りだすかのような狂気の世界が炸裂しまます。