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『バッド・エデュケーション』解説:スペインの地層から掘り起こされる、フランコ独裁政権の爪痕
作品のポイント

  • 構想10年。若き映画監督の過去を描いた、ペドロ・アルモドバルの「半自伝的」映画。
  • 重層的な物語構造のなかで、カトリック教会による性的虐待が描かれる。
  • 劇中劇の舞台となった60年代、スペイン国民はフランコの独裁政権下に置かれていた。

『バッド・エデュケーション』概要

『バッド・エデュケーション』(La mala educación)は2004年に公開されたスペイン映画です。直近では『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)に『トーク・トゥ・ハー』(02年)と、どちらかと言えば心温まる物語を紡いできたペドロ・アルモドバル監督。本作はクライム・サスペンスの要素を多分に含んでおり、一転して暗い色調となりました。

撮影観監督のホセ・ルイス・アルカイネは、アルモドバル作品ではお馴染みの存在。最新作『ペイン・アンド・グローリー』(19年)に携わるなど、80歳を迎えた現在でも現役を貫いています。

主人公の俳優イグナシオを演じているのはガエル・ガルシア・ベルナル。アルフォンソ・キュアロン監督の『天国の口、終りの楽園。』(01年)で主役を務めたほか、本作と同年公開の『モーターサイクル・ダイアリーズ』(04年)ではチェ・ゲバラに扮しました。有名どころではピクサー長編アニメーション『リメンバー・ミー』(17年)の骸骨・ヘクターの声優も担当しています。

もう一人、本作の語り部となる映画監督エンリケを演じたのはフェレ・マルティネス。アルモドバル監督とは前作『トーク・トゥ・ハー』の端役で仕事をしたばかり。その他の代表作に『オープン・ユア・アイズ』(97年、ハリウッド映画『バニラ・スカイ』のリメイク元)などがあります。

カンヌ国際映画祭をはじめ、世界各国で上映され高い評価を受けました。カトリック教会による性的虐待や思春期の同性愛、ドラッグ中毒など多彩な主題を取り交ぜながら、悲劇的な恋の顛末が描かれます。

『バッド・エデュケーション』あらすじ

1980年のマドリード。若き映画監督エンリケの事務所に、ひとりの俳優が仕事を求めてやって来ます。その芸名はアンヘル。本名をイグナシオといい、エンリケとは少年時代の恋人であったと主張します。

イグナシオは一本のシナリオをエンリケに手渡し、映画化した暁には自身も出演させてほしいと懇願します。「訪れ」と題されたシナリオには、二人がカトリックの神学校で過ごした日々、そして大人になって果たされた架空の再会劇が描かれていました。

――「訪れ」の物語は1977年から始まります。ドラァグクイーンとして舞台に立っていたイグナシオは、観客の中にいた昔の恋人、エンリケと邂逅するのでした。泥酔したエンリケと交わり、彼の枕元に手紙を残したイグナシオは、その翌日カトリック教会へと足を運びます。とある秘密をネタにして、教会の神父から大金をゆするために。

教会の寄宿学校は、イグナシオとエンリケが少年時代を過ごした場所であり、そこでイグナシオは神学校の校長であるマノロ神父から性的虐待を受けていました。エンリケを退学処分から救うために、イグナシオはマノロ神父に身を売ったのです――

と、シナリオを読んだエンリケは感銘を受け、映画化に向けて動き出します。そんな彼に対して、自身が主役を演じると言って譲らないイグナシオ。相手が自分の知っている恋人とは似ても似つかないことに疑念を抱き、エンリケはガルシア州にあるイグナシオの生家へと向かうのでした。

やがてエンリケは、イグナシオの隠された秘密を知ることになります。

『バッド・エデュケーション』解説

カトリック教会による性的虐待

カトリック教会による性的虐待。広く知られているように、この問題は2000年代より世界各地で次々と明らかにされ、ローマ教皇庁を巻き込む大きなスキャンダルとなりました。2015年の映画『スポットライト 世紀のスクープ』では、ボストンで起きた虐待事件を取材する地元紙記者の活躍が、実話にもとづいて描かれています。

『バッド・エデュケーション』の劇中でも、神父による衝撃的な虐待が描かれています。本作は自伝でこそありませんが、アルモドバル自身もカトリックの寄宿学校で少年時代を過ごしており、一部にその経験が活かされているとのこと。脚本の執筆には10年以上の歳月を費やしたそうで、監督の並々ならぬ情熱が注がれた作品といえます。

といっても、性的虐待は物語のきっかけに過ぎません。アルモドバル作品の多くがそうであるように、ドラァグクイーンや同性愛、薬物中毒など、扱われるモチーフは極めて多彩。それを一本のプロットへと落とし込むストーリーテリング能力は見事であり、脚本に無駄を感じさせません。

しかも、本作はややこしい入れ子構造になっています。いわゆる「劇中劇」ということで、映画監督である主人公のエンリケが「訪れ」という題の映画を撮影するのですが、このシナリオを持ち込んだのが俳優のイグナシオ。実は彼こそが前述した性的虐待の被害者であり、エンリケの初恋の相手でもありました。イグナシオは自身の体験をもとに「訪れ」のシナリオを書き、その劇中でも自身をモデルにした主役を演じることになるのです(実はここにサスペンス的な仕掛けがもう一つあり、終盤でその秘密が明るみに出ます)。

つまり、物語の語り手(=カメラの視点)は「アルモドバル監督⇒映画監督エンリケ⇒(劇中劇の)エンリケ」と3層に重なっていることに。何だか頭が混乱しそうになる話ですが、劇中劇の始まりと終わりのショットが巧みにつながれているため、鑑賞者は比較的スムーズに映像へと没入することができます。ちなみに、よく観ると劇中劇のシークエンスだけ、画面サイズが若干狭くなっていることに気づくはずです。

剥ぎ取った先に秘密がある

そこで解題の取っ掛かりとなるのは、なぜアルモドバル監督はこのようなスタイルを採用したのか、ということになります。この疑問は、本作が「カトリック教会による性的虐待」という重大な問題を扱いながらも、しかし奇妙なほどに主題が複数化している事実と無関係ではありません。イグナシオという悲劇的な青年の物語は、結局のところ何を暗示しているのでしょうか。

オープニングが導きの糸となります。写真やイラストがコラージュされた画面が、びりびりと引き裂かれ、その下から新たな画面があらわれて……。この「重層性」は劇中あらゆる場面で反復されます。映画館の壁一面にはチラシが重ね張りされ、ドラァグクイーンは女装用のスキンを身にまとい、頭をぶつけたイグナシオの顔は割れ、そして何より「劇中劇」の入れ子構造。つまり、本作では重層的なレイヤーを「剥ぎ取った」先に「秘密」があるのです。

この「秘密」は、もちろん神父による性的虐待のトラウマを指し示しています。劇中で事件が起きたのは1960年代、フランコの独裁体制が敷かれた時代でした。そして、大人になったイグナシオが神父から金をゆすり取るのは1977年。すでにフランコが死去し、スペインの民主化が果たされた時代です。

そう考えれば、イグナシオの「世の中は変わったわ。今は77年よ」という台詞の重要性も理解されます。さらに付け加えれば、アルモドバル自身も「1977年は民主的な時代だった」と過去を顧みているのです(DVDのオーディオコメンタリーより)。

スペインが抱える歴史のトラウマ

ここまでくれば、『バッド・エデュケーション』の背後にある歴史性が、スペインの抱える「トラウマ」が見えてきます。大きな傷跡を残したフランコの独裁。教会の性的虐待や同性愛者に対する差別が、この苛烈な支配と結びついていることは言うまでもありません。つまり、本作に反復される「重層性」と「剥ぎ取る」イメージは、この過去を掘り返すことの暗喩、一種の映画的な手続きだったといえます。

最後に、もう少しだけスペインの歴史について触れておきます。1977年に民主的な選挙が行われたスペインでしたが、当時は依然としてフランコ派の政治家が権力を握っている状況でした。しかし、1982年の選挙で社会労働党(PSOE)が歴史的勝利を収め、政権の座を奪取。これにより、スペインは一気に民主化の道を進むことになったのです。

さらに民主化から30年後の2007年には、「記憶の歴史法」と一般に呼ばれる法律が制定され、独裁政権下で犠牲となった人々の名誉回復や年金受給、そして当時の資料を保存することが定められました。なぜこのような法律が作られたかといえば、中道右派の国民党やスペインカトリック教会が、いまだにフランコ政権を「悪」として認めていないからです。つまり、スペインでは過去を清算することに対して、世論が半分に割れているのです。

『バッド・エデュケーション』の終盤では、俳優イグナシオの「嘘」が露見することになります。現実と虚構が混合するなかで、それでも「秘密」を「剥ぎ取る」こと。それは歴史認識の難しさを物語っているようでもあり、私たちにとっても、どこか他人事のようには思えません。

関連作品:『深夜の告白』(1994年)

『バッド・エデュケーション』の終盤では、古典的なフィルム・ノワールを彷彿とさせる場面が続きます。なかでも博物館で犯罪を計画する場面は、ビリー・ワイルダーによる『深夜の告白』へのオマージュ。フィルム・ノワールの金字塔的と呼べるこの作品では、フレッド・マクマレイ演じる主人公が、不倫関係にある女性と結託し、その夫を保険金目的で殺害することになります。

ペドロ・アルモドバルの魅力は、こうしたジャンル映画の枠組みを継承しつつ、解説で述べたような深い主題性を提示する点にあるといえます。