特集記事

作品のポイント

  • 「観察映画」第1弾。素人ながら市議会議員選挙に出馬した「山さん」の選挙戦を描く。
  • 自民党公認で活動する山さんの姿を通して、日本の選挙文化が見失った「現実」を考える。
  • 新時代のドキュメンタリー作家として、民主的な方法論で世界を見つめる想田和弘のカメラ。

『選挙』概要


『選挙』は2007年に公開されたドキュメンタリー映画である。監督・想田和弘が提唱するドキュメンタリーの方法論「観察映画」の第1弾として製作され、ベルリン国際映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭など世界各地で上映された。

被写体となったのは、監督の旧友でもある山内和彦。当時は政治経験ゼロの一般人だったが、ふとしたきっかけで公募に受かってしまい、自民党公認で川崎市議会議員補欠選挙へ立候補することに。先輩議員に叱咤激励されつつ、必死でドブ板選挙を展開していく。

時は2005年、自民党による郵政改革の真っただ中。小泉旋風の後押しを受けて、山内の当選も確実と思われたが……。そんな彼を観察するカメラを通して、日本の選挙をめぐる奇妙な文化が見えてくる。

『選挙』解説

「観察映画」の誕生

映画は4分半の長回しから始まる。川崎市・宮前平の駅前で「山さん」こと山内和彦が街頭演説をする場面だ。彼はいささか心許ない手つきで、立て看板とのぼり、そして拡声器を設置し、帰宅途中の市民に向けて語りかける。「小泉自民党の山内和彦です――」。カメラはそのまま180度反転するのだが、残念ながら駅の構内は閑散としている。

どうやら、塾帰りの小学生がカメラの存在に気付いたようだ。すかさず山さんが声をかけ(おそらく子どもの扱いには慣れていない)、「お父さんお母さんによろしく」とパンフレットを手渡す。ここでショットが切り替わり、カメラがゆっくりと引いていくと――ダメ押しで駅前の閑散とした光景を見せつけて――「選挙」の題字が画面に映し出される。以上が「観察映画」の記念すべきファーストシーンだ。

「観察映画」とは、想田監督が提唱するドキュメンタリー映画の方法論である。その詳細は別の記事で紹介したいが、簡単に言えば、作り手が可能な限り先入見を排し、目の前の光景をあるがままに観察することを主眼としている。そのための手段として、映像にナレーションテロップ音楽が挿入されることはない。撮影に先立って作品テーマが設定されることも、ましてや進行の台本が書かれることもない。ないないだらけで禁欲的なスタイル。一般的なテレビ・ドキュメンタリーとは正反対だ。

その結果として、完成した映画は多様な解釈の可能性を含んでいる。先述した冒頭シーンでいえば、街頭演説をする山さんの姿に何を感じるかは十人十色であり、人によっては頼もしく見えたり、人によっては優柔不断に見えたりするかもしれない。そもそも、ここには山さんに目を向ける必然性さえ存在しない。塾帰りの小学生が気になるのも真であり、小学生が貰うパンフレットに目がいくのも真であろう。個人的には、自動改札機に通される磁気切符の音が懐かしい。

言ってみれば、「観客映画」は作り手だけでなく、私たち観客も観察する主体とさせてしまう装置なのである。試みに、この「観察」を「批評」と読み替えても構わないだろう。もちろん、映画とは元来そうであるべきなのかもしれないし、世界とは元来そうであるべきなのかもしれない。ただ、普段の私たちはあまりに先入見にとらわれていて、眼前の事物をまっすぐに観察(批評)することを忘れてしまっている。与えられた主題や説明書きの言葉に、どこか満足してしまう自分がいる。

カメラのポリティクス

今となってみれば、この選挙戦をもって「観察映画」の嚆矢としたことには大きな意義があったように思える。というのも、そもそも観察映画というのは、それ自体として非常に政治的な方法論であるといえるからだ。もちろん、何もこの『選挙』が扇動的であるだとか、政権批判に徹しているだとか、そういったことが言いたいわけではない。その手のテレビ・ドキュメンタリー的演出が丁寧に取り除かれていることは、すでに述べた通りである。

ここで言いたいのは、想田監督のカメラが、撮ることの虚構性暴力性といった問題を、ある意ではポリティカルに解決していることである。映像作家は世界を恣意的に切り取り、ときに都合よく書き換えてしまう存在だ。それはドキュメンタリーの領域においても例外ではなく、むしろ映像が事実であることをうたっているがゆえに、ナイーブな問題として顕在化する。どれだけ傍観者を決め込んだとしても、カメラを手に持つ以上、現実世界への介入は避けられない。

カメラの倫理、とでも呼べるこの問題は、広く知られているように、過去にも多くのドキュメンタリストが直面してきた。たとえば「ドキュメンタリーは嘘をつく」とは、映画監督・森達也の言葉である。『A』(97年)や『i-新聞記者ドキュメント』(19年)などの作品で知られる森も、想田と同じくテレビ・ドキュメンタリーの出身であり、やはりと言うべきか、撮ること自体のうちにある問題を見抜いていた。ただし森の場合、その問題を作品の中心に置くことで(ときに自分自身を被写体としながら)、巧みに昇華してきたきらいがある。

トリッキーな森とは対照的に、想田監督の戦略はよりシンプルなものだ。「観察映画」は多義的な世界の形をできるだけ崩さず、華美な装飾の一切を排し、そのまま私たちの前に提示する。それでも、提示された映像が事実である保証はどこにもない。ひょっとすると山さんは優れた役者だったかもしれないし、選挙戦の裏では何か恐ろしい暗躍があったかもしれない(むろん戯言だ)。だが、「観察映画」という装置を前にして、少なくとも私たちは世界を観察するための「目」を手に入れている。その目によって、私たちは映像の向こう側にある真実を、どこまでも追い求めることができるはずだ。

おそらく、それは極めて民主的な手続きといえるだろう。それまで映像の側にあった主権(そこには虚構と暴力が不可避に含まれている)が、私たち鑑賞者の側にはっきりと委譲されるのだから。イメージの側に置かれていた優位性が、ふたたび現実の側に置き直されるのだ。

神輿に担がれた山さん

そして、このことは実際の政治とパラレルな関係にある。映像が現実を映し出す鏡であるように、政治家も有権者を映し出す鏡であるからだ。それゆえ、ときに映像は現実を裏切り、ときに政治家は有権者を裏切る。とかく『選挙』を通して見えてくるのは、この政治家と有権者の関係が奇妙に逆転している事実にほかならない。つまり、有権者(=現実)ではなく、政治家(=映像)の方が主権を持っているという構図が、一貫して強調されるのである。

たとえば、印象的な場面がある。選挙区に地盤を持たない山さんは、他の自民党議員が持つ後援会の力を借りて票を集めることになる。もちろん単独の補欠選挙だからこそ成せる荒業で、これが次の選挙となれば、山さんについていた人々は本来応援する議員のもとへと戻ってしまう。それを分かっていても、「今回だけは」と頭を下げて助力を乞うのである。

そんな山さんに向かって、一人の後援者が冗談交じりに「絆創膏は何ですか」と話しかける。どうやら絆創膏とは公約(膏薬/こうやく)のことを指しているらしい。自民党という組織の支持者である彼らにとって、実際に投票する男の選挙公約は二の次というわけだ。

この唐突な振りにテンパる山さんは、言ってみれば自民党の神輿に担がれ、イメージの中空に浮いた場所で戦っている。政治家と有権者が現実的な関係で結ばれることこそ、本来の民主主義であるはずなのだが、山さんと有権者は換喩的なイメージによって結ばれているのだ。ここには、先ほど述べた関係性の逆転がある。本来なら映像に対して優位に置かれるべき現実が、その意義を失っているのだ。絆創膏=公約という想像的な(?)言葉遊びは、その事実をことさら皮肉に物語っているように思えてならない。

つまるところ、この『選挙』は二重の意味において、この世界にあるべき民主性を回復させようとしている。一つ目は「観察映画」の嚆矢として、ドキュメンタリー作家が直面する「映像」と「現実」の関係性をとらえ直そうとするのであり、二つ目は「日本の選挙」を映し出すことで、政治家と有権者のあるべき関係性を思い起こさせようとするのである。この二点において、いわば本作はマニフェスト(絆創膏ではなく)としての役割を担っている。

ちなみに、山さんは本作の公開に合わせて出版した自著のなかで、撮影時のプライバシーについて首を傾げている。劇場公開されるとは夢にも思っていなかったようで、事前に被写体の承諾を得るなどの「もう少し配慮が必要だったように思います」と、なかなかに批評的だ。あれだけ神輿に担がれていた山さんも、ひとりの観察者であったということだろう。

想田監督がそうであったように、あるいは彼のカメラに同一化する観客がそうであったように、「観察映画」というポリティカルな装置を前にした被写体も、この世界を直接に観察してしまうのかもしれない。

参考文献:
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』想田和弘著、講談社現代新書、2011年。
『自民党で選挙と議員をやりました』山内和彦著、角川SSC新書、2007年。

関連作品:『立候補』(2013年)


『選挙』が落下傘候補を追ったドキュメンタリーであるとすれば、この『立候補』は泡沫候補を追ったドキュメンタリーである。マック赤坂と聞けば、おそらく多くの人が思い当たるのではないだろうか。京都大学を卒業し、伊藤忠商事で25年ほど働いた後、輸入販売会社「マックコーポレーション」を設立。2006年より「スマイル党」総裁として、東京を中心に政治活動を展開してきた。

『立候補』では、そんな彼が東京を離れ、2011年の大阪府知事選挙に出馬した様子が描かれている。奇抜なパフォーマンスばかり注目されるマック赤坂だが、中身は知的でエネルギッシュな60歳だ。最初は一歩引いた目で観ていた観客も、気づけばその奮闘ぶりに手を握っているはず。日本の選挙システムを考える上では、『選挙』とともに観ておきたいドキュメンタリーだろう。

ちなみに、そんなマック赤坂も2019年の港区議会議員選挙でついに初当選を果たした。区政での活躍に期待しよう。