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五反田団『生きてるものか』劇評:死の記憶を抱えた者たちの不条理劇
『生きてるものはいないのか』に対置される作品。今度は人が死んでいく様子ではなく、その死から逆再生される様子が描かれる。

五反田団について

1997年、和光大学に在学していた前田司朗を中心に結成。現在まで彼による作・演出作品を上演しています、

2007年の『生きてるものはいないのか』で岸田國士戯曲賞を受賞。2004年より五反田に「アトリエヘリコプター」をオープンし、稽古や公園の拠点としています。

劇作家のほか、小説家や映画監督としても活躍。 2017年には小説『愛が挟み撃ち』で芥川賞候補にも。

五反田団『生きてるものか』作品概要

作・演出:前田司郎
公演日:2009/10/28
キャスト・スタッフ:リンク先を参照

五反田団『生きてるものか』劇評

五反田団の代表作『生きてるものはいないのか』は人が次々に死んでいく様子をシュールに描いた不条理劇でした。対する本作『生きてるものか』も、ほとんど同じような設定によって人の死にフォーカスが当てられることになります。ただ一つ異なるのは、その出来事が時間を遡って描かれること。したがって、登場人物全員の死から『生きてるものか』の物語は幕を開けることになります。

舞台上に横たわる死者たちが、『生きてるものはいないのか』の結末を想起させることは言うまでもなく、すでにしてあの異様な空気感があたり一面に広がっています。すると一人の男が身体を滑稽なほどに痙攣させ、おもむろに立ち上がり、悲痛な断末魔や妻への愛を叫んだかと思えば、そのまま舞台袖へと下がっていくのです。

ひとり、またひとりと別の人物が同じように身体を痙攣させ、その最期の様子を演じていきます。ここまで来れば、どうやら物語が逆再生されているらしい、と観客は気づくわけですが、それでも意外なほど素直に話の筋が理解されます。というのも、結局のところ眼前にあるのは人間の「死に方」以外の何ものでもなく、そのシュールな姿だけを切り取れば、前作と変わらず単純明快なモチーフが広がっているからです。

しかしながら、その死に方は『生きてるものはいないのか』にも増して磨きがかかり、様々な変奏で私たちを楽しませてくれます。妙齢の母親は踊るように体をくねらせ、眼鏡の女は皮膚をかきむしるようにして、荒唐無稽な最期を迎えて死んでいく。その「死」が等しく画一的であるのとは対照的に、「死に方」は多様的であり、皮肉にも生き生きとした躍動を見せるのです。

「死」のカタストロフィから逆再生されるこの作品は、果たして「生」への希望に満ちたものになるのでしょうか。いや、話はそう単純ではないことに私たちは気付かされます。「死」の対義語は「生」なのだから、という理屈はまかり通らず、人物たちのあいだには、ただ薄ぼんやりとした死の空気感が漂うばかりです。

たとえば、ある男は人が次々に死んでいく世界を前にして、ここは「地獄」だとつぶやきます。その言葉に過敏に反応した女は、いや、ここは地獄絵図ではないと返答する。なぜなら「地獄の亡者は生きているのだから、静かになることなんてありえない」と言ってみせます。するとまた別の女が「生きてる亡者っておかしくないですか」と突っ込みを入れるのです。

あるいはまた、別の男は「目の前で死んだ人」の話を始めます。より厳密に言えば、「目の前で死んだ人」「死ぬ前にしていた」話をするわけです。ここにもやはり、独特の言い回しで「生」と「死」が織り込まれていることになります。やがて迎えられる「死」と、いま現在の「生」が同じ目線で語られ、一種のユーモアを生み出しているのです。

これらのやりとりは単なる言葉遊びに過ぎませんが、一方で、どこか示唆的あるように感じられます。つまり、「地獄の亡者」や「目の前で死んだ人」は語義のレベルでは確かに死んでいるのですが、それが投影する意味のレベルでは生きているのです。この二重性が、そのまま『生きてるものか』という作品自体へ敷衍されるように思えてなりません。生と死が奇妙に折り重なっている状態、それは、まさに本作の世界を指示してるように感じられます。

さて、「生」と「死」が混在する本作の着地点はどこに見いだされるのでしょうか。逆再生する登場人物たちの物語は、一見して支離滅裂のように思えながらも、出会いの連鎖、周到に張られた伏線によってクライマックスへと収束していきます。終盤に登場する男(前田司郎が演じています)が「生きてる実感がわかない」とうそぶくとき、私たちは朧気ながらも主題の輪郭を掴むことになります。先ほど触れた「生」と「死」の二重性は、言葉遊びの範疇を超えて、私たちの生き方そのものを暗示しているのではないか、と理解するわけです。

最後にあらわれるのは、お腹に新たな命を宿した女性と、その胎動を聞く男。無数の「死」から始まった物語は、たったひとつの「生」によって幕を下ろすことになります。しかし、そこにはやはり、「死」を表象する不気味な台詞が残されるのです。「赤ちゃんが生きる前は何だったんだろう?」と疑問を抱く男。考え込んだ末に、「死んでたんじゃない?」と答える女。

もはや、人生は逆再生などされる必要がありません。すべての生きとし生けるものは「死」から始まり、その茫漠とした記憶を抱えながら、虚無に向かってひた走るのです。