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作品のポイント

  • 60年代香港を舞台にした『欲望の翼』の精神的な続編であり、次作『2046』へと繋がる作品。
  • ウォン・カーウァイ的なエロスが漂うなか、マギー・チャンのチャイナドレスが七変化。
  • 小津安二郎に接近する過程で、香港における帝国主義の残滓が浮かび上がる。

『花様年華』作品概要

『花様年華』(花樣年華)は2000年に公開された香港映画です。ウォン・カーウァイ監督による7本目の長編作品であり、カンヌ国際映画祭に出品されました。パルムドールこそ逃しますが、トニー・レオンが男優賞(香港人俳優としては初)を獲得しています。

カメラマンを務めたのは、ウォン・カーウァイの右腕的存在であるクリストファー・ドイル。ただし、撮影スケジュールが延びたこともあり、途中で離脱。代わりにホウ・シャオシェン作品で知られるリー・ピンビンが参加しています。

また、音楽には作曲家の梅林茂が参加しており、彼が過去に携わった『夢二』(監督・鈴木清順)のテーマ曲が再度使われています。

タイトルの「花様年華」は、上海の伝説的歌姫、チョウ・シュアン(周璇)の曲「花様的年華」に由来しています。劇中でもラジオのリクエスト曲として流れますが、モチーフとなっているのは日本軍占領下の暗い時代。「満開の花のように美しい」年頃の女性を賛美する内容です。

主演はトニー・レオンマギー・チャンで、いずれもウォン・カーウァイ作品ではお馴染みのキャスト。マギーが演じるのはスー・リーチェンという女性ですが、これは『欲望の翼』で彼女が演じた人物と同じ。60年代の香港を舞台にした作品として、本作はその実質的な続編にあたります。

『花様年華』あらすじ

1962年の香港。その日、新聞社に勤めるチャウと船舶会社の秘書として働くスーは、同じアパートに越してきます。隣人同士すぐに言葉を交わすようになる二人。

しかし、チャウの妻は仕事で帰りが遅く、スーの夫は出張で家を留守にしがち。チャウもスーも、ひとりで食事する日々が続いていました。

二人はおぼろげながら、自分たちの伴侶が密会を重ねていることに気づき始めます。その事実を互いに確かめ合ったチャウとスーは、頻繁に食事を取り合う仲となることに。

チャウが小説を執筆するために借りたホテルの一室で、二人は親密な時間を過ごします。心では惹かれ合いながらも、けっして一線は越えないチャウとスー。

とはいえ、男女が二人きりで会うことに対して、世間は厳しい目を向ける時代でした。スーは夫に別れ話を切り出そうとしますが、それも叶わず。

未来のない関係に耐えきれなくなったチャウは、シンガポールへと旅立つことを決意します。「切符がもう一枚取れたら、僕と来ないか」とスーに言い残して。

『花様年華』解説

小津安二郎的なモラル

『欲望の翼』に続く、60年代憂愁ロマンスの傑作です。香港のアパートに隣人として越してきた二人が、互いの伴侶が密会していることに気づき、自分たちも不義の世界へ足を踏み入れようとする……。

あらすじだけ読めば、何のことはない、恋愛劇の王道を地でいくような展開ですが、ウォン・カーウァイの醸成するムードの中では話も違ってきます。類まれなる才覚によって人物と、人物の周辺を流れる時間を巧みに操ってしまう。スタイリストの美学ここに極まれり、と膝を叩きたくなります。

マギー・チャンの着るチャイナドレスが官能的であることは言うまでもなく、しかし特筆すべきは二人の男女が、壁一枚を隔てた場所に暮らしているという距離感にあります。アパートの狭い通路は、すれ違う度に体をかわす必要があるのです。

チェンとスーが何気ない態度ですれ違うとき、私たちはウォン・カーウァイ的な空間に漂うエロスを感じずにはいられません。少しでも触れ合えば、途端にすべてが瓦解してしまうような危うさ。その緊張感は終始にわたり持続し、本作を特異なロマンスに仕立て上げています。

多くの日本人にとって、この通路のような縦の構図が心地よく感じられるとすれば、それは小津安二郎の影響かもしれません。小津もまた抑制的なスタイリストであり、日本家屋の廊下を縦に捉えたショットを多用しました。もちろん、ウォン・カーウァイの構図とまったく同じというわけではありませんが(小津のカメラがローポジションであることは有名でしょう)、そこには少なからず近親関係を認めることができるはずです。

ウォン・カーウァイと小津安二郎。奇妙なことに、二人は主題的にも近接しています。たとえば小津の代表作『晩春』(49年)は、徹底して日本家族のモラルが賛美された作品でした。

婚期を逃しつつある娘(原節子)を見かねた父(笠智衆)が、見合い結婚を勧めようと画策します。男やもめの彼は自分に再婚の話があると嘘をつき、娘を安心させようとしますが、かえってショックを与えてしまう。娘にしてみれば、男が後妻を娶るなど「不潔!」きわまりない行為だったのです。

小津が固執した日本のモラル、言い換えれば「イエ」への強烈な帰属意識に関して、そのフィルモグラフィーに戦争の影響を見てとったのは歴史学者の与那覇潤でした(『帝国の残影』)。小津の作品は一見すると戦争とは無縁で、ひたすらに穏やかなホームドラマを描いています。しかし、そこには明らかに第二次世界大戦の、小津が従軍した日中戦争の残影がある、与那覇はそう述べました。

あの戦争において、イエ制度を中心とする日本の社会システムは、父系的な宗族を中心とする中国的なシステム(それはグローバル化と重なります)に対してはっきり敗北したのであり、小津はその事実を自覚していた、というのです。

中国化する香港

小津の作品には、拮抗する二つの力がある。だとすれば、ウォン・カーウァイが60年代の香港を描くとき、そこには同様の力学が働いているとはいえないでしょうか。チャウとスーは互いに「イエ」的なモラルを遵守し、けっして一線を踏み越えようとはしません。一方、チャウの妻(商社マン)とスーの夫(海外出張中)は中国的な、言い換えればグローバルな世界のプレイヤーであり、いとも容易く、壁一枚を隔てた密通を企ててます。

結果、チャウとスーは社会の変化について行くことができません。『晩春』の原節子が父を「不潔」と感じたように、本作の二人も新たな価値観に途惑いを覚えるのです。

問題は、ここが他ならぬ香港の地であることです。そこでは日本統治時代の記憶が暗い影を落とす一方で、中国に取り込まれていく脅威も如実に存在します。小津が身を置く日本とは異なり、長らくイギリス植民地化であった香港には、祖国をめぐる複雑な事情があるのです。物語と同じ1963年、5歳の時に上海から香港へと移住してきたウォン・カーウァイが、この政治性を自覚していなかったはずがありません。

そのことを証明するかのように、チャウとスーの恋愛は最後まですれ違いを続けます。苦悩するチャウは、もはや引き裂かれた香港に留まることはできない、と言わんばかりにシンガポールへと旅立ち、グローバルな世界に足を踏み入れます。その間にスーは香港に戻ってくるのですが、かつて賑やかだったアパートは閑散としており、家主もアメリカへ渡ってしまいます。チャウはといえば、スーが息子とともに住んでいることを知らずに、その部屋の前を通り過ぎてしまうのです。

もはや香港の外にも内にも幸福な結末は用意されていません。そして、肝心の香港が独立するためには、あと30年の歳月を待たなければならないのです。歴史の残酷さを突きつけるようにして、物語は幕を下ろすことになります。

最後に映し出されるのは、独立を果たしたばかりのカンボジア。その首都プノンペンをフランスのド・ゴール大統領が訪れます。かつての宗主国を盛大に歓迎する国民たち。その様子は香港の行く末を、ポストコロニアルな世界の現実を、投影しているように思えます。

関連作品:『情事』(1960年)

イタリアの名匠であるミケランジェロ・アントニオーニ。彼が同時期に発表した『情事』(60年)、『夜』(61年)、『太陽はひとりぼっち』(62年)は、俗に「愛の不毛三部作」と呼ばれています。

その第1作となる『情事』では、行方不明となった恋人を差し置き、その親友と関係を結んでしまう男が描かれます。この恋人、結末に至るまで消息が知られることはなく、事故なのか事件なのか、あるいは自殺なのかも判然としません。ただ物語にぽっかりと空いた穴が虚しく、その穴を埋めるように男女が情事にふけるのです。奇妙な三角関係の、危うすぎるサスペンス。