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『ダンサーインザダーク』から『母なる証明』にいたるまで、スクリーンの中でダンスが狂気と近接してしまう例は枚挙に暇がない。

本作で繰り返し登場するダンスも、そんな狂気の表現のひとつだ。今回はDCコミックスの人気ヴィラン(悪役)を描いた衝撃作『ジョーカー』(2019年)を紹介したい。

『ジョーカー』作品概要


『ジョーカー』(Joker)は2019年に公開されたアメリカ映画だ。DCコミックスに登場する悪役、ジョーカーの生い立ちを描いた作品で、『ハングオーバー』シリーズで知られるトッド・フィリップスが監督を務めた。

主演は『グラディエーター』(2000年)のホアキン・フェニックス。ちなみに、これまでスクリーンの中でジョーカーを演じた役者は3人いる。『バットマン』(1989年)のジャック・ニコルソンと、『ダークナイト』(2008年)のヒース・レジャー、そして『スーサイド・スクワッド』(2016年)のジャレッド・レトだ。

とりわけ、亡きヒース・レジャーの怪演は映画史に残るものとなり(ジャレッド・レトは分が悪かった)、本作が制作される要因となった。そんな彼の衣鉢を継ぐという大きなプレッシャーの中、監督たっての希望でホアキン・フェニックスがジョーカー役に抜擢されたのである。

本作では、原作でも詳しく描かれてこなかったジョーカーの生い立ちが明らかにされる。興収は全世界で10億ドル以上を記録し、ベネツィア国際映画祭ではアメコミ映画史上初となる金獅子賞も獲得することになった。

『ジョーカー』あらすじ

優しい青年が起こした事件

物語の舞台は1981年のゴッサムシティ。コメディアンとしてステージに立つことをを夢見る道化師のアーサーは、年老いた母ペニーとともに暮らす優しい青年だった。

アーサーは自分の意志とは関係なく、発作的に笑い出すという病気を患っていた。そんな彼が社会に受け入れることはなく、さらに同僚にも裏切られた結果、道化師の仕事をクビになってしまう。

放心状態で地下鉄に乗るアーサーだったが、そこに酔っ払いの会社員がやって来る。彼らはアーサーの姿を目にとめると嘲笑し、暴行を加えるのだった。耐えかねた彼は持っていた銃を不意に取り出すと、会社員を射殺。慌ててその場から逃走する。

翌日のニュースで事件が報道され、被害者がエリート社員であったことが判明した。容疑者とされるピエロ姿の男は、社会への不満を訴える貧困層の象徴となっていく。

狂気のTVショー

隣人のソフィーとも親密な仲になり、自らの存在価値を見出すようになったアーサー。しかし、偶然にも母の手紙を読んでしまった彼は、自分が大富豪トーマス・ウェインの私生児である事実を知ってしまう。

真相を確かめるため、アーサーはウェイン家の屋敷を尋ねることに。そこには幼き日のブルース・ウェイン、つまり後のバットマンの姿もあった。

トーマスの息子であることを信じるアーサーは、彼に直接会って話をしようとする。だが、その先には辛い現実が待ち受けていた。その事実を知った彼は、自らの死を演出するために、狂気のショーを行うのだった。

『ジョーカー』解説と考察

DCコミックスの反撃?

『ダークナイト』で描かれたジョーカー像というのは、どこまでも"悪"の魅力を備えていた。大衆を扇動し、善人を悪の道へと引きずり込んだ上、自分は高みから見物を決め込む男。そこには9.11以後のアメリカの姿が重ねられ、「正義」のあり方をめぐる問題が描かれていたはずだ。

だが、そうはいっても『ダークナイト』ではジョーカーという"絶対悪"の存在そのものが揺らぐことはなかった。たしかにクリストファー・ノーランはアメコミの固定観念を揺さぶってみせたが、善/悪の対立軸は保持していたのである。

その後、DCコミックスは『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)でもう一度「正義」の存在を強調してみせ、『スーサイド・スクワッド』(同年)では悪役を主人公とすることで、その概念を相対化してみせた。

これは、マーベル・コミックとは明らかに異なる方向性だったと思う。マーベルの映画が明快な善悪の物語を追求していったのとは対照的に、DCコミックスは社会的なテーマを含んだ作品を発表してきたのである。たとえば、アマゾネスを主人公とした『ワンダーウーマン』のように、その視野はフェミニズムの領域にまで及んでいる。

ちなみに、2019年には『アイリッシュマン』のマーティン・スコセッシ監督が、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)を「映画ではない」と批判している。そんなスコセッシも当初は『ジョーカー』のオファーを受けようとしていたという話があるくらいだから、アメコミに多少の興味はあったのかもしれない。

アンチ・アメコミヒーロー

 作品のネタバレを含んでいる。
こうした流れを受けて『ジョーカー』は制作されたが、その構造的な危うさはすでに知られるところだ。

精神疾患が原因で社会から疎外されたひとりの男が、悪に自分の存在価値を見出していく。そんな彼の境遇に自己同一視する観客もいたのだろう。全米公開時には銃乱射事件の発生が懸念され、各映画館では警備体制が強化された。

それでも『ジョーカー』が巧みだったのは、ラストシーンで観客を大きく突き放した点にある。

TVショーでの衝撃的な事件の後、逮捕されたジョーカー(=アーサー)は暴徒と化した民衆に助け出される。場面が切り替わると、彼は病院で医者の前に座り、臨床尋問を受けている。ジョーカーは何かのジョークを思いつくが、「あなたには理解できない」と医者に教えようとはしない。フランク・シナトラの「That's life」が流れ、血の足跡を残してジョーカーは去っていく。

この最後の場面によって、『ジョーカー』は私たちがこのアンチヒーローに同一化する余地さえ残さなかったように思える。「あなたには理解できない」とは、観客に向かって投げかけた言葉でもあるのだろう。あなたには同情を求めていない、俺は俺の人生を生きるんだ、と。

その姿は、もはやアンチヒーローなどといったものではなく、アメコミヒーロー自体に対する反逆児であるかのようだ。

次に観るのは:『タクシードライバー』(1976年)

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『ジョーカー』の下敷きとなった作品として、『キング・オブ・コメディ』(1982年)とともに監督が公言している作品。マーティン・スコセッシ監督の代表作であり、主演のロバート・デ・ニーロは『ジョーカー』にも出演。

1960年代から1970年代にかけて隆盛した、アメリカン・ニューシネマの代表作として知られている。