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大山顕『新写真論』書評:今世紀の自撮り写真は新たな価値を生み出せるのか

『新写真論』基本情報

大山顕『新写真論』、株式会社ゲンロン、2020年。

大山顕(おおやま・けん)
写真家/ライター。1972年生まれ。工業地域を遊び場として育つ。
千葉大学工学部卒業後、松下電器株式会社(現Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。出版、イベント主催なども行っている。著書に『工場萌え』(石井哲との共著、2007年)、『団地の見究』(2008年)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、2016年)、『立体交差』(2019年)など。

『新写真論』より引用

『新写真論』書評

出会い系アプリのプロフィールに自撮り写真を使うのは控えた方がよさそうです。相手から「いいね!」を貰いやすいのは他撮り写真であって、最近では自然な「奇跡の一枚」を撮影してくれるカメラマンも多いと聞きます。

それは非常に便利で……と、恋愛市場の諸相はさておいて、ここで取り上げるのは写真の問題です。そもそも「他撮り」というのは奇妙な言い方で、1839年のダゲレオタイプ発明以来、写真は他人の手によって撮影されてきました。それが今日では、スマホによって自分を撮影することは当たり前。旅行先では自撮り棒を使って自身と風景を記録し、SNSにアップロードして公開するわけです。

スマホカメラの性能も向上し、もはや画質は一眼レフと遜色がありません。それだけでなく、優秀なオートフォーカスの機能が備わり、AIによって写真の自動選別もしてくれる。現像も閲覧もすべて端末上に一元化され、これ以上のユーザビリティはないように思えます。

こうなると、街の写真屋や結婚式のカメラマンは廃業の危機に陥り、写真家という職業は存在意義を失ってしまうのではないか、と考えるのも無理からぬこと。しかしながら、本書『新写真論』ではスマホとSNSの誕生を歴史的な好機ととらえ、新たな時代の写真論が提示されています。著者の大山顕は写真家で、これまで工場や団地の写真を数多く撮ってきた第一人者。本書は電子批評誌『ゲンロンβ』に連載された文章をもとにした、スリリングな論考です。

ところで、どのようにしてスマホとSNSは写真史に革新をもたらしたのでしょうか。本書の記述はワールドトレードセンターから心霊写真、果ては香港デモまで幅広く展開されますが、その基本理念は一貫しています。それは、従来のカメラが作り出していた写真の特権性が、著者の言葉を引用すれば「隔たり」が、技術革新によって取り払われたということ。

20世紀的な写真の土台にあったものは、特殊な知識を必要とする一眼レフや、時間を要する現像過程、不可触とされるフィルム写真の特性でした。その結果として、写真には入力から出力にいたる様々な場面で距離が生まれてしまった。たとえば、それは被写体とレンズの距離であり、鑑賞者と写真の距離であり、あるいは、「撮ること」と「観ること」の(時間的な)距離であるともいえます。

考えてみると、過去の写真論が前提としてきたのは、この絶対的な距離感でした。ロラン・バルトが写真を「死」と結びつけたとき、あるいはスーザン・ソンタグが写真に「所有」の形式を見てとったとき、そこにはつねに、難儀な距離を隔てるカメラの存在があったはずです。と同時に、それは私たちが写真を純然と楽しむときに、絞りやシャッタースピードといった技術の話から入ってしまうことと、けっして無関係ではないように思えます。

しかし、現在の私たちは世界との直接的な接触を果たそうとしています。画面をタッチするだけで、スマホは眼前の光景をスキャンするように保存し、SNSやクラウドへと即座にアップロードしてくれる。先ほど挙げた名前をもう一度出せば、バルトの書いた「死」は「生」へと変わり、ソンタグが述べた「所有」は「共有」へと変化したのではないでしょうか。

『新写真論』は未来志向の書です。と同時に、手垢に塗れた旧来の写真論を、その原点へと立ち返らせてくれる書でもあります。歴史上すべての写真は自撮りだった、と言ってみせる著者の論述は、私たちに大きな価値転倒をもたらしてくるはずです。

現在の写真は、撮影者自身が映っていないと、誰が撮ったものか判別しづらい。だから、自撮りとは撮影者の署名のようなものだ。一方、かつては自分が写っていなくても、フィルムが撮影者の手元にあるということが多くの場合撮影者を特定していた。極端な言い方をすると、かつての写真は、記録する自分を撮る「自撮り」だったと言えるのではないか。

『新写真論』145頁

フィルムからデジタルへと形式が変わっても、そこには撮影者の署名がある。そのように著者が書くとき、私たちの前に、もはや聞き飽きたかもしれないアウラ(オーラ)という言葉が、ふたたびその鎌首をもたげてきます。自撮り写真と、その写真をめぐって交わされるSNSの経験は、情報化時代における第二のアウラを現前させてしまうのではないでしょうか。少なくとも、淡い期待を抱かせるだけの魔力が、本書に備わっていることは疑いを容れません。