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作品のポイント

  • 生き急ぐ俊英グザヴィエ・ドラン監督の第3作(公開当時23歳)
  • トランスジェンダーの女性とその恋人。二人の愛を10年にわたり描いた物語。
  • カンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞するもドランは拒否。

『わたしはロランス』作品概要

カナダの若き俊英グザヴィエ・ドラン。その第3作『わたしはロランス』(Laurence Anyways)は2012年に公開されました。本来は前作『胸騒ぎの恋人』(10年)よりも先に構想されていましたが、資金の調達に時間がかかったことから後回しに。その後、ケベック文化産業促進公社(SODEC)とテレフィルム・カナダの支援を受けて制作に乗り出しました。

主役のロランス役を演じるのは、『ぼくを葬る』(フランソワ・オゾン監督、05年)で知られるメルヴィル・プポー 。当初はルイ・ガレルが起用されるでしたが、リハーサル4日前に彼自ら降板を申し入れたため、急遽変更となった経緯があります。

ロランスの恋人フレッドを演じるのはスザンヌ・クレマン。ケベック出身の女優で、ドランの処女作『マイ・マザー』(09年)のにも出演しています。さらにロランスの母親役には、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』(79年)やフランソワ・トリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』(73年)で知られるナタリー・バイが抜擢されています。

ちなみに、ドラン自身はキャストに名前を連ねていませんが、物語の中盤、フレッドがダンスパーティーに参加する場面でカメオ出演しています。

トランスジェンダーの女性ロランスが、真の自己を求めて戦っていく10年の半生を描いた作品。カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映され、スザンヌ・クレマンが女優賞を受賞したほか、作品自体もクィア・パルム賞を受賞しています。

『わたしはロランス』あらすじ

モントリオールで文学教師をしているロランス・アリアは、美しく情熱的な女性フレッドと順調な交際を続けていました。35歳を迎えたその日、ロランスは自身がトランスジェンダーである事実を彼女に打ち明けます。

「僕は女になりたい」という彼の言葉に動揺の色を隠せないフレッド。母と妹からは別れることを勧められますが、ロランスが偽りの自分に苦しんでいることを知り、関係を続けたままその背中を後押しすることを決意します。

母親の理解も得たロランスは、大きな勇気とともに「Xデー」の日を迎え、女性の格好で職場へと向かいます。こうして始まった自由への革命。社会の偏見と戦うロランスを、フレッドは深く理解し、そして愛するようになっていました。

しかし、当時は90年代。性的マイノリティに対する社会の目は厳しく、ロランスは学校を解雇されてしまいます。一方のフレッドも自身のキャリアに悩み、密かに身ごもっていたロランスの子を堕ろすと、何もかも忘れるように知人のダンスパーティーへと参加。そこで出会った男と関係を持ち、フレッドに別れを切り出すのでした。

それから5年後、作家となったロランスは新たな恋人とトロワリヴィエールに暮らしていました。彼は結婚したフレッドのことを密かに思い続けており、出版した詩集を彼女のもとに送ります。

詩に隠されたメッセージに気がついたフレッドは、ロランスとの再会を果たします。かつての愛がよみがえり、妻子を置いてロランスとの旅に出るフレッド。しかし、イル・オ・ノワールに着いた二人を待ち受けていたのは、理想とは程遠い現実でした。

『わたしはロランス』解説・考察

孤立するクィア文化

前作『胸騒ぎの恋人』に先駆けて構想された作品であり、この二つの作品のあいだには一定の連続性を認めることができます。とはいえ、間違ってもその共通項は「性的マイノリティ」などではありません。ドランは自身の映画を「ゲイ映画」と呼ばれることに不満を抱いていますし、本作もカンヌ国際映画祭のクィア・パルム賞(LGBTI+を主題にした映画に贈られる賞)という栄誉を拒否しています。ドランにしてみれば、本作は普遍的な愛を描いた作品であり、クィア・パルムという賞の存在自体がマリノリティへのタブーを助長していることになるのでしょう。

ということなので、『胸騒ぎの恋人』と『わたしはロランス』はゲイやトランスジェンダーといった「特殊性」を主題にしているのではなく、むしろ一貫して「普遍性」の獲得を主題にしているのだ、と考えることができます。そしてその主題は、人々の揺れ動く目線によって表現されているといえるでしょう。

『胸騒ぎの恋人』のラストシーンを思い返してみると、そこで描かれていたのはパーティー会場で主人公の男女を誘惑する青年(ルイ・ガレル)の"視線"でした。この物語で美青年(ニール・シュナイダー)との三角関係が展開されたことを考えれば、そこに新たな恋の始まりを予感することは難しくありません。記事のなかでも書きましたが、恋愛の本質は「見つめ合う」という行為のなかに存在します。同性愛者であろうと異性愛者であろうと、それはまったく同じ意味を持ちますが、強いていえば後者はこの視線の美学を見失いつつあります。

「普遍」とは人が見つめ合うこと

一方、『わたしはロランス』のオープニングシーンで描かれていたのも、やはり主人公ロランスを見つめる人々の"視線"でした。トランスジェンダーであるロランス(メルヴィル・プポー)の姿を、街の人々は好奇心の目で見るわけです。物語を通して、彼はこの社会的な視線と戦うことになります。目をそらし続けるインタビュアーに憤慨し、「視線が重要」と言って聞かせるロランス。カフェ店員の態度に激高し、うつむく相手に対して「私の目をみなさい」と言い放つフレッド。

簡潔に言ってしまえば、ドランの映画において「特殊性」とは目線を合わせないことを意味し、「普遍性」とは目線を合わせることを意味します。両者の作品はともに「普遍」の獲得を、言い換えれば、通念的に「特殊」とされる人間が目線を合わせるたったひとつの瞬間を、映画を通して見出そうとします。それが成就されたとき、たとえば『わたしはロランス』のインタビュアーはこう答えます。「あなたは美しい」と。

さらに言えば、本作が当初ルイ・ガレルを主役に据えていたことも、やはり示唆に富んでいるといえます。前作でハートを射貫くような視線を送っていたガレルが、本作では視線の暴力にさらされる(はずだった)のです。物語の背景の違いによって、つまり現在から90年代へ、閉鎖的な空間から解放された空間へと舞台が変わることによって、彼は見る存在から見られる存在へと転落することになります。

グザヴィエ・ドラン監督のまとめ記事はこちら。経歴や関連キーワードとともに、全作品を完全解説しています。

関連作品:『ぼくを葬る(おくる)』(2005年)


主演のメルヴィル・プポーは、『わたしはロランス』の出演を自身のキャリアにおける大きな転機になったと語っています。そんな彼は本作より前にフランソワ・オゾン監督(ドランと同様にゲイであることを公表しています)の作品に出演したことがありました。

末期癌により余命3か月を宣告された男が、残りわずかな人生を通して「死」と向き合っていく物語。 共演としてジャンヌ・モローの姿も見ることができます。