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作品のポイント

  • 岡山の診療所を舞台に、精神病の世界を直接にまなざす「観察映画」第2弾。
  • 古民家型の診療所「こらーる岡山」を設立した精神科医・山本昌知の人間性に触れる。
  • 2020年も変わらない障害者支援の現状と、取り払われない匿名性のモザイク。

『精神』概要


『精神』(2008年)は想田和弘監督によるドキュメンタリー映画。前作『選挙』(07年)に続き、監督が掲げるドキュメンタリーの方法論「観察映画」の第2作として公開された。

精神科診療所「こらーる岡山」を舞台に、精神疾患を患う人々と、診療所で働く医師やスタッフたちの姿を見つめた作品である。当事者たちの合意のもとで、それまでタブーとされてきた精神病の世界がモザイクをかけずに映し出された。

釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞など、世界各地で数々の賞を受賞している。

『精神』解説

鼻をかむ医師の人間味

診察室に訪れた患者が、涙ながらに苦しい胸の内を打ち明けている。大量服薬を試みてしまったことを吐露し、ついには自殺願望まで口にする女性。そんな彼女と向かい合う初老の医師は、どこか屈託のない様子でうなずくと、「死ぬのはいけん」と優しく諭してみせる。そして立ち上がろうとする彼女の側で、机の上のティッシュを掴むと――実にあっけらかんとした様子で――鼻をかみ始めるのだ。

何度観ても苦笑してしまうオープニングなのだが、ここには作品の魅力が存分に詰め込まれている。台本を作らず、余計なテロップや音楽も排し、あるがままの光景を映し出すカメラ。テレビドキュメンタリーの作法などいざ知らず、抑制的なスタイルで撮り進められた映像は、奇妙なことに、この世界の偶然性を捉えて離さないのだ。気持ちよさそうに鼻をかむ医師のように。

『精神』は、想田監督が掲げるドキュメンタリーの方法論「観察映画」の第2弾として公開された作品である。とはいえ、撮影自体は第1弾『選挙』(07年)と一部並行して行われたようだ。「山さん」こと山内和彦が川崎市の補欠選挙に出馬した2005年秋に、岡山でも取材が行われていたことになる(さらに2007年夏にも撮影が行われている)。

その舞台となったのは、一見すると古民家のような佇まいの精神科診療所「こらーる岡山」。この診療所を1999年に設立したのが、オープニングに登場する精神科医の山本昌知先生だった。気になったので調べてみると、1972年に36歳の若さで岡山県精神衛生センター(現・精神保健福祉センター)所長に就任している。

そのセンターを希望退職した後、なかば社会奉仕のような形で現在の診療を始めたのである。驚くべきことに、当の本人は給料をほとんど貰っていないことが、劇中でスタッフの口から語られている。

2020年の社会から考える

想田監督のカメラが観察的であることは言うまでもないが、それはまた、カメラに同一化する私たちが観察的となることを意味している。ここにはテロップナレーション音楽もない。言ってみれば、ガイドのいない山道を手探りで進んでいくようなものだ。どの場面に目を向け、どのような物語を組み上げるのか、すべては私たちに委ねられている。

だからこそなのだろうか、『精神』は何度観ても興味深い発見がある。軽やかに電卓を叩くスタッフの手つき。ホワイトボードに書かれた予定。電話越しの相手から聞こえる他愛のない話。などなど。

もちろん、その発見には2020年から過去を振り返ったときの、年月の隔たりも含まれている。

たとえば、障害者をめぐる法律が変わった。先ほど述べたように、本作で描かれたのは2005年。これは小泉政権下で障害者自立支援法が制定された時期にあたる。それまで障害年金を利用していれば、利用サービスの自己負担額はゼロだった。ところが、この自立支援法によって原則1割の負担が定められてしまったのだ。これでは、就労機会のない障害者は満足なサービスを受けることができない。

劇中の人々が声を揃えて批判している理由は、この応益負担、つまり所得に関係なく一律負担が求められてしまう点にある。「よくぞやったな小泉」と、劇中の女性は怒りをぶつけるのだが、奇しくも同時期の『選挙』では小泉純一郎が応援演説していたばかりだ。ここにも「観察」によって見出された、この世界の偶然性がある。

現在、この障害者自立支援法は、障害者総合支援法として改正されている。あれだけ批判されていた応益負担はどうなったのかと言うと、さすがに形式上は改善されたようだ。所得に応じて、負担額に上限が定められるようになったのである(こちらは応能負担と呼ばれる)。とはいえ、原則1割負担の考え方は依然として残っており、すべての問題が解決されたとは言い難い。

匿名性=モザイクの問題

時代背景から呼び起こされる気づきは、もうひとつある。精神病に対する社会の色眼鏡だ。それは、はたしてこの15年で変わったのだろうか。この点に関しては明確な答えがある。2020年現在も、精神病の匿名性=モザイクは如実に存在している。それどころか、2016年に「津久井やまゆり園」で引き起こされた惨劇を通して、私たちは社会からモザイクを取り払うことの難しさを知ってしまった。

障害を持つ当事者を含めて、より深い議論がされなければ、彼らの匿名を固有名へと変えることはできない。『精神』は倫理的な葛藤を乗り越え、医師と当事者の協力のもとで完成した。今度は私たちが、倫理について考える番ではないだろうか。

監督自身、観察映画の方法論は撮影技術の発達によって可能になったと述べている。いわゆるデジタル撮影によって、ドキュメンタリー映画は「民主化」されたというわけだ。となれば、スマートフォンの普及によってさらなる技術革新が果たされた現在、その「民主化」は極致まで達したと言えるだろう。言い換えれば、いまや私たちの誰もが「観察」する主体となったのだ。

見えないカメラの持ち手として、私たちはモザイクのない世界に思いを馳せる――

参考:『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』想田和弘著、講談社現代新書、2011年。

関連作品:『すべての些細な事柄』(1997年)


精神疾患を題材にしたドキュメンタリーは複数あるが、ここではギリギリ入手しやすい作品を。『すべての些細な事柄』はフランス・ブロワにある精神科診療所が舞台のドキュメンタリーだ。

この診療所、哲学者のフェリックス・ガタリと精神科医ジャン・ウーリーが1953年に設立し、半世紀以上にわたりユニークな治療法を行ってきた。患者たちの互助精神を大切にしているらしく、看護師も自由闊達な雰囲気で彼らと交流している。

『精神』と同じく、ここで描かれているのは些末事に過ぎないが、同時に幸福な出会いで満たされている。監督は『かつて、ノルマンディーで』(07年)のニコラ・フィリベール