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沢木耕太郎『深夜特急』:揺蕩うような旅に出る

Tシャツ三枚にパンツ一枚。半袖と長袖のシャツがそれぞれ一枚ずつ。靴下三足。なぜか水着とサングラス。洗面道具一式。近所の医者が万一の場合にとくれた抗生物質と正露丸一壜。アメ横で買ったシュラフと友人からの貰い物のカメラ一台。ガイドブックの類はいっさいなく、ただ西南アジアとヨーロッパの地図が二枚あるだけ。本は三冊。それがザックに突っ込んだ荷物のすべてである。

第1章 朝の光

今回は沢木耕太郎『深夜特急』の紹介です。言わずと知れた旅のバイブル。30年が経っても古びない本書は、無目的な旅を計画することの面白さを伝えてくれます。

『深夜特急』概要

『深夜特急』はノンフィクション作家・沢木耕太郎による旅行記。1986年に『深夜特急 第一便 黄金宮殿』および『第二便 ペルシャの風』、1992年に『第三便 飛光よ、飛光よ』が刊行された。

現在は新潮文庫より全6冊で入手できるほか、本作に関連する旅のエッセイを集めた『旅する力―深夜特急ノート』も刊行されている。

『深夜特急』解説

旅と放浪の違い


『あなたへ』(12年)という映画があって、これは高倉健の遺作でもあるのですが、その劇中でビートたけしが「旅と放浪の違いは、目的があるかないか、帰る場所があるかないかです」と語る場面があります。

つまり目的を持っているのがで、目的を持たないのが放浪ということで、ビートたけしは前者の例として松尾芭蕉を、後者の例として種田山頭火を引き合いに出したりしています。

それにならえば、この『深夜特急』という書物は果たして旅について書かれたものなのか、それとも放浪について書かれたものなのか。

紀行文の体裁をとっている以上、それは前者なのかもしれませんし、「バックパッカーのバイブル」ともてはやされた内容を考えれば、後者といえるかもしれない。

結局のところ、この「旅なのか放浪なのか区別がつかない」あたりが『深夜特急』の普遍的な魅力なのであって、同時に沢木耕太郎の文体的な特徴なのだと思います。

なにせ著者は大卒で入社した会社を一日で辞めてしまうような人物です。しかも、その理由を聞かれる度に「雨のせいだ」と答えてもいる。

私は雨の感触が好きだった。雨に濡れて歩くのが好きだったのだ。雨の冷たさはいつでも気持よかったし、濡れて困るような洋服は着たことがなかった。ところが、その入社の日は、ちょうど梅雨どきであり、数日前からの長雨が降りつづいていた。[中略]丸の内のオフィス街に向かって、東京駅から中央郵便局に向かう信号を、傘をさし黙々と歩むサラリーマンの流れに身を任せて渡っているうちに、やはり会社に入るのはやめようと思ったのだ、と。

第6章 海の向こうに

執行猶予の中で

その後、彼は沢木耕太郎という筆名でルポルタージュを書くようになり、その後の数年は締切に追われる日々を送ります。そして26歳の時、抱えていた仕事を中断して『深夜特急』の旅に出ることになったのです。「インドのデリーからイギリスのロンドンまで、バスだけを使って移動する」という目的を持って。

せっかく軌道になりかけているのに。今がいちばん大事な時ではないか、と忠告してくれる人もいた。だが、ジャーナリズムに忘れ去られることなど少しも怖くはなかった。それより、私には未来を失なうという「刑」の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものは、それだった。

第6章 海の向こうに

『深夜特急』の面白さは、この「執行猶予」の中にあるといえます。著者は当初こそ明確な目的を持って旅に出るのだけれども、そこにはキャリアの決断を先延ばしにするという放浪の意味合いも込められている。松尾芭蕉のようでもあり、種田山頭火のようでもある。

先ほど「インドのデリーから」と書きましたが、実際は成田から格安航空券を求めて香港へと渡っています、マカオでは博打にの世界に足を踏み入れ、カイジも度肝を抜かすような駆け引きを展開。観光スポットと呼ばれるような場所にはほとんど足を運ばずに、現地の安宿を拠点に人々と触れ合う。それはまさにバガボンド(放浪者)的であるといえます。

異国は理解できるのか

沢木は後の対談の中で、紀行文というのは二種類に分類されると語っています。ひとつが「異国は理解できるのだ」と考える紀行文で、もうひとつが「異国というのは分からない」と考える紀行文。彼は自分の文章を後者に位置づけていて、対置される紀行文として小田実の『何でも見てやろう』を例に挙げています。

1961年に刊行された『何でも見てやろう』というのは、少年時代の沢木耕太郎を旅の世界へ誘った本です。その意味では『深夜特急』に少なからず影響を与えているのですが、旅行記としての方向性は少し異なっている。小田実の文章が異文化コミュニケーションの可能性を前提にしている一方で、沢木の文章はその不可能性を前提にしている訳です。

このスタンスというのは、前述した「執行猶予」の話と無関係ではないように思います。全体性とか目的性のようなものを初めから放棄して、揺蕩うような旅を続けていくのが『深夜特急』の魅力です。いくら観光地をめぐったところで、あるいは現地の言語を習得したところで、日本人にはけっして理解できない外国の文化。本書は旅行の目的を喪失しているという意味でも放浪的ですが、他者の理解を求めないという意味でも放浪的といえます。

マカオで博打に明け暮れた著者のように、旅は偶然に満ち溢れています。ゴールを定めるのでもなく、何かを理解しようとするのでもなく、ただ偶然に身を委ねて、揺蕩うような旅を続けたい。『深夜特急』を再読する度に思うのは、そんな放浪へのロマンにほかなりません。