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パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』書評:科学的真理と文学的想像力の未来

『コロナの時代の僕ら』概要

パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』飯田亮介訳、早川書房、2020年。

パロオ・ジョルダーノ(Paolo Giordano)はイタリアの作家。1982年トリノ生まれ。素粒子物理学の博士号を持つ。大学院在学中に発表した処女作『素数たちの孤独』では、素数をモチーフに、相容れない男女の関係を詩的に描いてみせた。同作はイタリア最高の文学賞とされるストレーガ賞を受賞し、国内だけで200万部超のベストセラーとなっている。その他の作品に、アフガニスタンに派兵された若者たちを描いた『兵士たちの肉体』など。

『コロナの時代の僕ら』書評

感染症疫学と真理

3月から続いていたイタリアの外出禁止措置も、ついに解除されたようだ。現時点での国内感染者数は22万人、死者数は3万人。一日6,000人に上る感染者数を出していた時期もあったが、それも徐々に沈静化している。

『コロナの時代の僕ら』は、渦中のイタリア、ローマに暮らすパオロ・ジョルダーノが、2月29日から3月4日までに紡いだエッセイである。3月下旬に早くも原著が出版された後、イタリア在住である飯田亮介によって翻訳、4月24日に日本版が刊行された。今も世界各国で刊行が進められている本書は、いわば「ポスト・コロナ」ならぬ「イントラ・コロナ」文学と呼ぶことができるだろう。

本書はささやかな記録の断片に過ぎないが、ここには情勢下の私たちにとって、最も枯渇しているものが描かれている。こう言ってよければ、そのひとつは科学的真理であり、もうひとつは文学的想像力である。相反するように見えるかもしれないが、この二つは相補的な関係を結んでいる。

なにせ物理学に知悉している著者であるから、CoV-2に対する叙述は一貫して理性的である。感染症の流行をビリヤードの球にたとえながら、ウイルスの再生産数(R0/アールノート)を丁寧に教え説く。CoV-2の場合、再生産数の数値は2.5程度と考えられている。つまり、感染者1人あたり約2.5人にうつしてしまう計算だ。この数値を1.0以下にすることができれば、感染は終息へと向かう。そのために日本で「接触8割減」が目指されていることは、周知の通りである(出典)。

感染症の流行はいずれも医療的な緊急事態である以前に、数学的な緊急事態だ。なぜかと言えば、数字とは実は数の科学などではなく、関係の科学だからだ。

『コロナの時代の僕ら』

CoV-2は見えざる脅威だが、この「関係の科学」によって可視化することができる。理性さえ失わなければ、ウイルスに対処することは難しくない。にもかかわらず、ここまで人々が取り乱してしまうのはなぜなのか。著者はそれを「非線形の世界」という語で説明している。私たちは感染が線形的に増減すると考えてしまいがちだが、そもそも、あらゆる自然法則は指数関数的な変化にもとづいている。私たちの常識からすると、こうした非線形的な現象はあまり馴染みがない。

こうした、いわゆる「複雑系科学」と呼ばれる領域のなかに、感染症疫学も置かれている。数理モデルが機能するものの、確実な未来予測をすることが難しい世界だ。そのことが、いっそう社会の不安を駆り立ててしまうのだろう。

科学的真理の価値は、少しも揺らぐことなく私たちの前に置かれている。だが、さまざまな専門家によって、さまざまな真理が示されるとき、私たちは飽和した議論に食傷してしまう。いまの私たちが直面しているのは、不安を取り除くための科学的言説が、かえって不安を引き起こしてしまうという、一種の逆説であるように思えてならない。

人殺しになることの想像力

だからこそ、もうひとつ別のアプローチが必要なのだと思う。日々の感染者数を目で追いかけることに疲れた人のために。それぞれの科学的言説を盾にして、人々が対立を深めないために。

感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。平時の僕らが不慣れなタイプの想像力を働かせろと命じ、自分と人々のあいだにはほどくにほどけぬ結びつきがあることを理解し、個人的な選択をする際にもみんなの存在を計算に入れろと命じる。

『コロナの時代の僕ら』

しごく簡単に言えば、著者が語る想像力のタイプとは、「私が人殺しになり得る」という一文に集約されるだろう。それは同情とか憐憫とか、その手の想像力とは一線を画している。むしろ、そのような他者への感情を、想像力のすべてであると思い違えている人が、これまで少なからず存在してきたのではないか。他者への想像力は、想像力の一形式に過ぎないにもかかわらず。

だが、CoV-2が世界的に蔓延している現在、私たちはこの「想像力」を定義し直さなければならない。私は人を殺すかもしれない。私は罪を犯すかもしれない。明日の朝に目が覚めた時、自分が無垢であるという保証はどこにもない。あるいは、ひょっとすると私はすでに誰かに危害を加えた後なのかもしれない。その意味において、想像力とは自己に対する想像力でもあるのだ。

もちろん、それは今に始まったことではない。今日の私と明日の私とのあいだの連続性は、退屈な日常のなかでつねに脅かされてきた。ウイルスが人を殺すことはなくとも、気の緩みが事故を引き起こす可能性や、よろめきが不倫にいたる可能性は、あらゆる場所に伏在していたはずだ。

ここで言いたいのは、そのような行為を肯定するということではない。そのような行為をしてしまうかもしない自分を、肯定するということである。情勢下の私たちに求められているのは、こうした文学的想像力にほかならない。

「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」。そう著者が記した通り、もはや元の世界には戻れないし、また戻るべきでもないのだろう。またたく間に膾炙した「ニューノーマル」という言葉は、経済や政治のシステムのみならず、私たち自身までもが変容を被るような、ある種のカフカ的状況を指し示している。

コロナ以後の世界は、真理や想像力のあり方が問われていくのだろう。「以後」という言い方が、現在との決定的な切断を前提しているのだとすれば、それを「予後」と読み替えてもいい。CoV-2の終息後も、このウイルスによってもたらされた「病」の余波は続いていく。予後に向けた科学と、予後に向けた文学を、私たちは同時に素描していかなければならない。