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カミュ『ペスト』書評:不条理小説とコロナの広がる世界

タルーはランベールを、壁面全部が戸棚になっている、ごく小さな一室にはいらせた。彼はその戸棚の一つを開き、消毒器から吸湿性ガーゼのマスクを二つ引っ張り出し、その一つをランベールに渡して、それを被るように勧めた。ランベールが、こんなものが何かの役に立つのかと尋ねると、タルーは、そうではないが、しかしこれを被っていると向こうが安心するのだと、答えた。

『ペスト』宮崎嶺雄訳

コロナウイルスの流行にともなって、アルベール・カミュの『ペスト』が重版出来のようです。1947年に発表されたこの小説、アルジェリアの街に訪れたペストの脅威を描いたもので、カミュの代表作として知られています。

ということで、今回は不条理小説『ペスト』の書評です。

記事のポイント

  • カミュの小説『ペスト』を通してコロナウイルス問題を考える。
  • 森喜朗の「神様じゃないんだから」発言をめぐって。
  • 野田秀樹の意見書と「演劇の死」をめぐって。

カミュ『ペスト』基本情報

『ペスト』(La Peste)はアルベール・カミュによるフランスの小説。1947年に刊行され、邦訳は新潮文庫で読むことができます。

第二次大戦中に発表された『異邦人』に続く小説。ペストが蔓延した街を舞台に、カミュの探求する不条理の主題が淡々とした筆致で描かれています。

1956年、本作品を含めた文学的創作活動の功績がたたえられ、カミュは43歳の若さでノーベル文学賞を受賞しました。しかし、それから4年後に不慮の交通事故(諸説あるようです)でこの世を去ります。

ちなみに、2012年にはそんな彼の自伝的遺作である『最初の人間』が映画化されています。監督はイタリアの名匠ジャンニ・アメリオ。(U-NEXTで観る

カミュ『ペスト』あらすじ

アルジェリア、地中海に面するオランの街。ある朝、医師のベルナール・リウーは一匹のネズミの死骸を目に留めます。その日の夕方にも、血を吐いて倒れるネズミがまた一匹。街中で起きる死骸騒ぎに、医師はいわくありげな予感を覚えます。

やがて、人々のあいだで謎の熱病が流行り出します。いずれもリンパ腺の炎症をともなった患者たちを診て、リウーたち医師はペストの襲来を知るのでした。その死者はうなぎ上りに増え続け、ついに知事はオラン市の閉鎖を宣言。こうして疫病との長い戦いが始まります。

最近街にやって来たというタルー、そして小説家志望の官吏グランがリウーのもとに駆けつけ、ともに患者の治療にあたることに。街全体が死の雰囲気に覆われるなか、自殺願望のあった犯罪者コタールだけがひとり浮かれています。

新聞記者のランベールは、愛する妻に会いに行くため市外への脱出を計画します。門番を買収しようとする彼でしたが、リウーもまた市外に妻を残していることを知り、結局は考えを改めるのでした。街に残ることを決めた彼は、リウーの仲間に加わってペストと戦います。

神父であるパヌルーは、この災禍を神が与えた試練として教え説いていました。しかし、教会にやって来る者たちは次第に減っていき、苦しみぬいた彼の息子も、そして最後にはパヌルー自身も死んでいきます。

やがて疫病は潮が引くように終息していきます。閉鎖の解除を間近に控え、街が喧騒を取り戻していくなか、逃亡していたコタールは警察に捕まるのでした。いまになってタルーはペストを患い、そのまま帰らぬ人となってしまいます。

リウーは療養中の妻が死んだことを電報で知らされます。いつの日かペストがどこかの街に訪れることを予感しながら、彼は筆を擱くのでした。

カミュ『ペスト』解説

「神様じゃないんだから」

東京オリンピックの開催判断について、森元総理大臣が「神様じゃないんだから、分からない」と答えましたが、それもある意味では至言かもしれません(救いがたい失言であることに変わりはないですが)。

パンデミックというのは終わりが見えないという点で、特異な空間を作り出してしまいます。現代の医療技術をもってしても、明確な目算を立てることができないわけです。それはまったく不条理であること極まりなく、ひとりの人間として神を持ち出したくなる気持ちも多少は理解できます。

とはいえ、カミュが考える「不条理」とは、徹底して宗教を否定するところから始まるものです。人間が理性では受け入れがたい出来事に直面したとき、神を信じることは一応の解決策になります。事実、キルケゴールのような哲学者は神との関係を前提とすることで、人間の存在を規定しようとしました。

しかし、カミュはそうした超越者の存在を求めようとはしません。不条理とは、あくまでも人間の立場から自己と向き合い、病気や戦争といった困難に立ち向かっていく思想です。『ペスト』の主人公であるリウーのように、そこには実存的なヒューマニズムモラルの精神が宿っているのです。

「別離」と「追放」

『ペスト』が注目を集めている理由として、後手に回る行政を小説の内容と重ねるニュース記事も見受けられましたが、実際のところ、そのような描写はわずかなもの。本作の主題に体制批判の意を汲み取るのはいささか無理があります。むしろその主題の中心は、不条理なペストの蔓延によって引き起こされる「別離」「追放」に集約されるといえるでしょう。

「別離」と「追放」とは何を意味するのでしょうか?

もちろん愛する者を失うという意味で「別離」であり、愛する世界から隔絶されるという意味で「追放」です。疫病に襲われたオランの街はひっそりと静まり返り、狂気に陥った一部の人間は自らの家に火をつけます。あるいは新聞記者ランベールのように、自分ひとり街から脱出しようとする者も現れます(たしかに、彼の利己主義はマスクの供給をめぐる現在進行形の問題を想起させるかもしれません)。

愛を失うということは、他者への想像力を失うことを意味します。そしてそれは、人々の孤立を促すことになってしまう。はじめから愛を失っている孤独者コタールだけが、災禍によって水を得た魚のように活力を取り戻すというのは、もはや皮肉以外の何ものでもありません。

実際のところ、すべてが彼らにとって現在となっていたのである、ペストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

『ペスト』269頁

こうして、オランの人々は「未来」と「愛」を失い、ただ平板な時間だけを生きるようになります。

「連帯」の力

オランの人々が孤立に直面するなかで、カミュが最も重要視している「連帯」の力が生まれます。リウー医師とタルー、グランはともに手を携え、そこに態度をあらためたランベールも加わります。彼らはヒューマニストであり、同時にモラリストとしても描かれる。

さらに言えば、彼らがペンを手に取る者であることも、看過できない示唆を含んでいるように思えます。この物語の語り手であるリウーはもちろん、タルーは手記をしたためており、グランは壮大な小説の書き出しを懸命に考えている。そしてランベールはといえば、言うまでもなく新聞記者です。

手紙や電話といった手段が失われ、電報によってのみ外部と連絡ができるような状況において、彼らは徹底して言葉を紡ぐ人間であろうとします。不条理な病に対し、理性的な連帯によって孤立を回復するのです。

「演劇の死」

封鎖されたオランの街中では、毎週オペラの公演が行われていました。ここでも私たちは、逼迫した状況下における連帯の可能性を見出すことができます。共同的な体験を通して他者への想像力を取り戻し、人間的な理性を回復すること。それこそが今日の世界に無くてはならないもののように思えます。

『ペスト』で直接に示されているのは人間の実質的な死ですが、そこには人々が連帯を失うことによって引き起こされる形式的な死が含意されています。語弊を恐れずにいえば、この二つの死は相補的なものであり、後者が極端に軽んじられるべきものではない。むしろ形式的な「人間」の喪失によって、より多くの悲劇が生じることだって考えられるわけです。

だからこそ、コロナウイルスをめぐる政府の自粛要請に対して、劇作家の野田秀樹が出した意見書(全文はこちら)には一定の意義があるように感じられます。ここで表面的に書かれているのは演劇関係者の収入に対する懸念ではあるのだけれども、実のところはもっと遠大な問題であるはずです。

現況を理解した上で、それでもいま、この時だからこそ演劇が必要であると考える者がいるのであれば、その上演を阻む理由などどこにもありません。それを芸術家の身勝手と謗ることなど、いったい誰ができるのでしょうか。

リウーは、泣いている老人が今この瞬間に何を考えているのか知っていたし、彼も老人と同様にそのことを考えていたのである――愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求めるときが来るのだということを。

『ペスト』389頁