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佐々木俊尚『時間とテクノロジー』書評:時間の因果を抜け出し、新たな「生」を起動せよ

『時間とテクノロジー』概要

『時間とテクノロジー』佐々木俊尚著、光文社、2019年。

佐々木 俊尚(ささき としなお)
1961年生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。作家・ジャーナリスト。
毎日新聞社などを経て2003年に独立し、テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆している。
『仕事するのにオフィスはいらない』『当事者の時代』(以上、光文社新書)、『広く弱くつながって生きる』 (幻冬舎新書)など著書多数。

著者紹介より

『時間とテクノロジー』書評

時間に規定された「因果の物語」

直近では『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著)という本も刊行されましたが、あちらは理論物理学者による時間論。一方、こちらはジャーナリストの著者が、主に社会学的な知見によって書き下ろした本です。

ということなので、哲学者(ベルクソンやら大森荘蔵やら……)が登場する時間論とも毛色が異なります。大略を言えば、情報技術の発達によって「時間」の質が変容し、旧来の枠組みで人間を規定することが難しくなった。だから私たちは、新たな枠組みのなかで「生」を再定義しなければならない、といったところでしょうか。メディア論や最新テクノロジー、映画作品など種々の引用が紐づけられた先に、人類の新たな物語が立ち上がります。

それにしても、人間が背負ってきた「時間」という"くびき"の存在たるや。現代人の多くが、時間を抑圧として捉えるのも無理はありません。神経症的な「過去」にも、分裂症的な「未来」にもうんざりしているのが正直なところ。それは「仕事を効率化し、生産性を高めよ」といったビジネス書の売り込み文句にとどまらず、人生における様々な場面で私たちを支配しています。

たとえば、学生の就職活動で求められるものは、履歴書から見えてくる個人の「ストーリー」です。過去にどのような人や物と出会い、試練を切り抜け、現在へと至っているのか。ロジカルな因果論の物語を組み上げることが、そのまま自分の市場価値につながります。『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』のように壮大な物語を語ることができれば、あるいは英傑として社会に認められるかもしれません。

著者の論述にしたがえば、こうした世界認識の方法は「時間」を前提にした「因果の物語」です。人類の誕生から、私たちは宗教や神話といった「因果の物語」を構築することで文明の発展を遂げてきました。それは自意識を持つ人間だけが成せる業であり、複数の出来事を関連付けて記憶すること(エピソード記憶)を可能にするものです。あるいはまた、社会や人生の目的を設定することで、人々に未来志向の活動を促すものでもあります。

20世紀までの私たちは、この「因果の物語」で十分にやり繰りすることができました。それだけ「過去」と「未来」がはっきりしていたのでしょう。過去から未来へと向かっていく時の流れ……。「歴史哲学テーゼ」のヴァルター・ベンヤミンは、それを天使の比喩で語ってみせましたた。廃墟のような過去を眺めつつ、人類は進歩のために未来へと絶えず押し流されるのだ、と。

因果律の通用しない世界で

しかし、こうした世界認識は絶対の方法ではありません。少し周りを見渡せば、因果が成立しない事象など無数に転がっています。サイコロの目、台風の進路、明日の平均株価。世界の真実とは、けだし確率的な振る舞いのなかにあるのではないでしょうか。それでも世界を因果論で捉えようとすれば、かならずどこかで破綻を迎えてしまいます。

それだけではなく、21世紀のイノベーションは新たな枠組みを、反-因果論的な物語を作り上げようとしています。たとえば「人工知能」。それは膨大なデータと複雑な計算式によって、特定の問題に対する最適解を導き出してくれます。それが優れた決定であることは間違いないのですが、私たち人間には、それがどのようなプロセスで出力されたものであるのか理解することができません。「○○だから△△」といった因果関係を把握することはできないのです。

前述した例をふたたび取り上げるなら、将来的な就職活動は「AIスコア」によってすべて賄われるかもしれません。自身の出自や実績をデータベースに入力すれば、人工知能が自動的にその人物の能力を示してくれます。あるいは、適正な業界や業種まで教えてくれるのです。そうなったとき、私たちが面接でエピソードトークを考える必要などなくなります。自動化された世界のなかで、人間は「因果の物語」から解放されるのです。

むろん、それが私たちから選択の自由を奪ってしまうことは、もはや想像に難くありません。たしかに因果律によって規定された人生の中で、無数の選択を迫られることはストレスとなります。とはいえ、その選択をすべて機械に委ねることも、同じ程度に苦痛をもたらすはず。こうして「因果の物語」にも「機械の物語」にも頼ることができなくなったとき、私たちは何を根拠として生きるべきなのでしょうか。

論述の末に著者が指し示すのは、「この瞬間の世界」と直接的につながることの意義です。

未来の期待も、過去との関係も、だんだんと薄れていこうとしているのが二十一世紀という私たちの時代の特徴です。だったら自由を軸にして世界を語るのではなく、過去も未来もないこの瞬間の世界に対する期待を、構築し直さなければなりません。
それは、この瞬間の世界につなぎとめられているという感覚ではないでしょうか。過去と未来と言う時間軸につなぎとめられている感覚ではなく、「今この瞬間の世界に」つなぎとめられているという感覚。

本書第四章より

それは間違っても刹那的に生きることを意味しません。そうではなく、もはや「未来」も「過去」も自明ではないことを前提とした上で、「現在」の生を最大限に持続させることを意味します。

いいかげんに聞き飽きたと、そんな声も挙がりそうですが、たしかに「いまを生きる」とは特に真新しくはない、マインドフルネス的な発想かもしれません。しかし、テクノロジーの発達によって、その精神性が目に見えるものとなりつつあることは確かな事実です。

この世界と直接に触れ合っているという感覚。UI(ユーザーインタフェース)/UX(ユーザーエクスペリエンス)の進歩やVR(仮想現実)/AR(拡張現実)によって可能となったその手触りは、少なからず21世紀の「物語」として、私たちを導いてくれるはずです。