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宇野常寛『遅いインターネット』書評:物語に抗い、物語る批評

インターネットは、はじめて人間そのもの、常に「市民」と「大衆」の中間をさまよい続ける「人間」という存在に適応したメディアだと言える。にもかかわらず、2010年代の人類はインターネットを「大衆」を動員するために用いた。ここに過ちがあったのだ。

宇野常寛『遅いインターネット』63頁。

著者情報

宇野常寛は1978年生まれの批評家、編集者。批評誌「PLANETS」主宰。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011年)、『母性のディストピア』(集英社、2017年)など。

『遅いインターネット』書評

インターネットの青写真

「ネットサーフィン」という言葉も、今ではすっかり耳にする機会がなくなってしまいました。かつて、といってもほんの10年ほど前には確かに使われていた言葉なのですが、その頃の高揚感を今のインターネットに覚えることはほとんどなく、私たちは冷めた手つきでGoogleの検索窓に文字を打ち込んでいます。

あの頃と現在とでは、いったい何が変わってしまったのでしょうか? 一言でいえば、そこに転がる情報の質感が変わってしまったのだと思います。かつてのインターネットにはいい意味での場末感があって、現実世界とは切り離された魅力的な文化がありました。端的に言えば、そこには無数の「物語」があったはずです。

そもそも、インターネット黎明期の私たちは情報など求めていなかったもしれません。情報に紐づけられた「物語」の差異に、語釈に基づいて言えば、その「波」に乗ること自体が快感であったように思えます。

けれども、今のインターネットに広がっているのは、ひたすらに画一化された(ように見える)情報空間です。SEO(検索エンジン最適化)によってあらゆる検索キーワードが序列を競い、それぞれが広告収益を前提にしたサイトへと誘導される。結果として、画面には並べて無機質な情報が映し出されることになります。

と、こんな風に書いている私もWEBライティングに携わっている身なので、ここでは多分に自己批判を込めて書きます。ネットビジネスで金科玉条のように言われるSEOにおいて、何よりも重要なのは「需要のあるキーワードを選定し、他サイトよりも検索上位に表示されること」でしかないわけです。

現在のGoogleの検索エンジンはAI(2015年ごろに導入されたRankBrainアルゴリズム)によって高精度化し、従来のような抜け道的攻略法で検索上位を狙うことは困難になりました。それでも、今度はそのAIに評価されるためのコンテンツをめぐって、人々は知恵を絞って攻略法を見つけ出そうとしています。

もちろん、それらコンテンツのすべてが悪いと言いたいわけではなく、結果として質の高い情報に然るべくアクセスできる状況は賞賛に値します。しかし、その一方で、かつて存在した魅力的な「物語」が埋もれてしまったことは否めません。

このインターネットの変容は、前世紀末より始まるグローバル化が迎えた、いささか早すぎる限界点として読み替えることができます。インターネットの発明は社会を、ひいては〈人間〉を変革してくれる……そんな風に夢見た者たちは数知れず、幾人かの哲学者などはその具体的な未来図を提示してみせたわけです。

けれども、今日の世界を見渡せばたちまち理解されるように、その青写真は儚く燃え尽きてしまいました。インターネットの言説に広がっているのはフェイクニュースとヘイトの嵐であり、その空間に裏打ちされた社会は民主主義のラディカルな暴走を引き起こしています。ドナルド・トランプやブレグジットに象徴される右派ポピュリズムは、まさにグローバル化された領土そのものから生まれているのです。

「大衆」と「市民」の乖離

『遅いインターネット』図解1
前置きが長くなってしまいましたが、『遅いインターネット』が議論の発端としているのはこの失望感にほかなりません。日本に、そして世界に充溢する未来への危機感。それは多くの人が共有しているはずの感覚であり、様々な論者が乗り越えようとしてきた壁でもあります。

具体的に宇野が示す解決案を、ここで子細にパラフレーズすることは困難を極めますし、書評記事の本意でもありません。したがって、ここではいくつかの要点にだけ触れておくことにしましょう。

一貫したスタンスとして、筆者は情報化やグローバリゼーションを否定したり、そこから逃れようとしたりはしません。それはすでに進行している事象なのであって、そもそも私たちはこの新たな世界に身を置き、その大きな恩恵にあずかっているからです。情報化とグローバル化を自明の立脚点として、本書はその思想を展開していくことになります。

先ほど述べたトランプ政権やブレグジット、そしてオリンピックを間近に控えた日本の現況に対する批判的検討から、宇野はグローバル化における構造的な問題点を導き出します。それは「市民」「大衆」との乖離である、と指摘するわけです。

ここでの「市民」とはグローバル化に順応し、その資本主義の潮流に乗った人々を指します。いわば彼らは「境界のない世界」の住人であり、ジャーナリストであるデヴィッド・グッドハートの言葉を借りて、宇野は「Anywhere」(どこにでも生きる人)と呼んでいます。

一方、本書における「大衆」とはグローバル化以前の価値観を持ち、旧来の「境界のある世界」の住人とされます。同様にして「Somewhere」(どこかにしか生きられない人)と呼ばれる彼らは、ローカルな国民国家の枠組みのなかで生きているのです。

世界はこの「市民」と「大衆」に二分されており、後者によってトランプ政権のようなポピュリズムが生み出されています。だとすれば、グローバル化された「市民」によって旧態依然の「大衆」を啓蒙することが、現況の決定的な打開策となるのではないか? と誰しもが思うはずです。

しかし、本書はこの考え方を否定します。むしろ、この言説こそがトランプ政権を生み出したのだ、と推断してみせます。なぜなら、「市民」が民主主義の存在を必要としていない一方で、「大衆」が身を置いているのは民主主義国家それ自体です。この枠組みで政治が行われる以上、トランプのような大統領が勝利を収めるのは自明の理である、というわけです。

ならば、「市民」と「大衆」の対立を乗り越え、ポピュリズムの蔓延した世界を作り変えるためには、いったい何が必要なのか? こうして宇野の批評的論考が始まっていきます。

インターネットに「人間」を接続する

『遅いインターネット』図解2
民主主義に対する立憲主義の影響力を強化することや、政治参加への回路を情報技術によって増やすことなど、既存の解決案が紹介された後、宇野が声高に主張するのが、インターネットを中心とするメディアの変革であり、ひいては本書の題名でもある「遅いインターネット」構想です。

本来、インターネットとは「市民」と「大衆」でもなく、「人間」の存在そのものと密に結びつく空間であるというのが、その考え方のベースになっています。たとえば、20世紀に隆盛した映画は能動的な鑑賞を想定しているという意味で「市民」的なメディアです。その一方で、受動的な鑑賞が想定されるテレビは「大衆」的なメディアであるとされます。これまでの近代制度はこの「市民」と「大衆」の両軸によって機能するものでした。

しかし、「市民」や「大衆」は選挙やデモのような非日常的な空間においてのみ与えられる属性に過ぎません。その虚飾をはぎ取れば、私たちは「人間」(金融マン、工学部の学生、二児の母……)として、ありのままの日常を生きているわけです。インターネットとは、この「人間」として直接的にアクセスすることができる性質を備えていると、そう宇野は述べています。

とはいえ、そもそもなぜ「人間」が重要とされるのでしょうか? それは「市民」や「大衆」に加工されることで、私たちが社会的な虚構のなかに囚われてしまうからにほかなりません。

たとえば「大衆」はテレビやインターネットを受動的に利用することで、国民国家などのイデオロギーへと接続されています。いわば、それは「他人の物語」を生きているにすぎません(本書ではアクロバティックに吉本隆明が引用され、彼の重要概念である「共同幻想」の語が当てはめられています。

一方の「市民」はといえば、彼らはSNSを能動的に利用し、「自分の物語」を語っている。その振る舞いは、一見するとイデオロギーから自立しているように思えるかもしれません。ところが、実際は他人の目を気にし、大喜利的な発信を繰り返すことで非日常の空気感に迎合しています(「共同幻想」と癒着し、肥大化する「自己幻想」)。意識が低いのも問題ですが、高すぎるのも問題なのです。

「大衆」も「市民」も、それぞれ社会的な虚構に囚われた存在である点で共通しています。大衆は「他人の物語」を生きていることに問題があり、市民は自分語りによって「非日常」を生きていることに問題がある。この両者を乗り越えるために「人間」、つまりインターネットの直接性が必要なのです。

「物語」から「物語り」への戦略

『遅いインターネット』図3
「大衆」でもなく「市民」でもなく。あるいは「他人の物語」でもなく、「非日常」でもなく。翻って考えれば、私たちに求められているのは「自分の物語」「日常」の地平で発信することではないか……。本書で提示される「遅いインターネット」とは、この新たな領域を開拓するための試みといえます。

端的に言って、それは「生活」の領域である、と宇野は述べています。たとえば前世紀に隆盛した映画は、「非日常」かつ「他人の物語」を生きるものでした。一方、その後に普及したテレビは「日常」かつ「他人の物語」へとアクセスする装置です。どちらも大衆的なメディアとして「他人の物語」を前提とすることはすでに述べました。

しかし、前世紀の終わりにさしかかる頃、革新的な発明としてインターネットが誕生することになります。情報環境の変化は、それまで「他人の物語」に惹かれていた人々の心を、「自分の物語」へと誘うことになります。多くの人々が物語ることの魅力に気づき、インターネットを通して発信をするようになったのです。

これによって確かに新たな可能性が開けたのですが、蓋を開けてみれば、人々が物語っているのは「非日常」の出来事でした。有名人のイベントに参加したことをFacebookで発信したり、Twitterで特定の人間を叩いたり……。現在のインターネットは、いわば「祝祭」的な狂騒に包まれてしまっているといえます。

だからこそ、私たちは依然として手つかずである「生活」の領域に、「日常」かつ「自分の物語」の領域へと飛び込んでいかなければならない、というのが『遅いインターネット』が導き出したひとつの答えです。

既存のネットメディアとは一線を画する、閉じられた発信の場を確保し、そのなかで書くことと発信することの技術を磨いていく。そこにおいて、初めて私たちは主体的に世界と向き合う力を身につけることができます。「速い」インターネットに蔓延する、自己幻想にとらわれた言説と一定の距離を置き、つねに批評的な態度を取り続けること。

「物語」に対して批評を行ってきた著者(あるいは同時代の批評家)が、「物語ること」それ自体、いわば「物語り」へと批評的なまなざしを向けたという点において、『遅いインターネット』は決定的な論考であるように思えます。

20世紀の初め、ヴァルター・ベンヤミンは「物語る技術が終焉に向かいつつある」と記しました。その意義が、今日あらためて問われようとしています。