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雨は人間のクズどもを歩道から洗い流してくれる。

『タクシードライバー』

2019年に公開された映画『ジョーカー』。その脚本の下敷きになったとされる作品が、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』です。

屈折した青年が社会に向かって銃を突きつける物語。スコセッシ節炸裂の本作を紹介します。

『タクシードライバー』作品概要


『タクシードライバー』は1976年のアメリカ映画です。『レイジング・ブル』や『ヒューゴの不思議な発明』で知られるマーティン・スコセッシ監督の代表作であり、アメリカンニューシネマの金字塔とも称される作品です。

脚本はポール・シュレイダー。彼はその後も『レイジング・ブル』(1980年)や『救命士』(1999年)などでスコセッシ作品に参加しているほか、自身も監督として活躍しています。

サックスによるテーマ曲が印象に残る本作ですが、音楽を担当したのは『めまい』(1958年)などヒッチコック作品も手がけたバーナード・ハーマン。ただし本作のレコーディング終了直後に死去し、残念ながらこれが遺作となってしまいました。

カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを受賞し、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されるなど、歴史的な評価を受けている作品です。

『タクシードライバー』あらすじ

主人公の名前はトラヴィス。ニューヨークで孤独に暮らす元海兵隊員の男でした。戦争による不眠症に悩まされていた彼は、タクシー会社の夜勤の職に就きます。

しかし、夜のマンハッタンは退廃した街。薬物中毒の若者や性に溺れるゴロツキたちに嫌悪感を抱きながらも、彼は毎晩タクシーを走らせ、仕事が終わるとポルノ映画館に通いつめるのでした。

そんなトラヴィスが偶然出会ったのは、大統領候補パランタイン議員の選挙事務所で働く女性・ベツィでした。彼女の気品に引かれ、デートに誘うトラヴィス。

二人は徐々に親しくなっていきますが、トラヴィスはいつもの慣習でベツィをポルノ映画館に連れて行ってしまいます。当然彼女は激怒し、彼の恋は早々に終わりを告げるのでした。

さらに深刻な精神状態へと陥っていったトラヴィスは、次第に「何か大きなことを仕出かしたい」と考えるようになります。そんな彼の目に留まったのは、ひとりの幼い少女でした。彼女がヒモのような男に連れまわされていることを知ると、トラヴィスは決意を固めます。

拳銃を購入した彼は射撃と肉体のトレーニングに励み、来るべき日のために計画を練っていきます。偶然にも食料品店で居合わせた強盗を射殺し、すっかり英雄気取りとなるトラヴィス。

彼が狙いを定めるのは、大統領候補バランタインの選挙演説でした。ついにその日がやって来ます。

『タクシードライバー』解説・考察

実存的な悩みを抱える主人公

主人公のトラヴィスは精神的に鬱屈した男であり、タクシーを運転しながら夜のニューヨークに向かって呪詛を吐き続けます。暇さえあればポルノ映画館に通いつめ、部屋に戻ると孤独な日記を書き綴っている。

要するに、友達のいない陰気な男なのですが、彼の場合はそれがベトナム戦争に起因することが暗示されています。戦争によって受けた心の傷がまだ癒えていないわけです。

その性格設定には、ドストエフスキーやサルトルの小説を思わせるものがあります。たとえばドストエフスキーが『地下室の手記』で描いたのは、社会変革の可能性を否定し、地下に閉じこもる小官吏の男でした。あるいはサルトルの『嘔吐』で描かれる主人公は、街の存在すべてに嫌悪感を抱く孤独な研究者です。

彼らに共通しているのは、抱えている悩みが実存的であるということ。つまり「人間の存在そのもの」を巡って悩んでいるということです。『地下室の手記』の小官吏が政治を否定するのも、『嘔吐』の研究者がそれまで親しんできた事物に吐き気を催すのも、その対象が「本質」であるからです。彼らにとって、物事の中身など重要ではない。物事があること自体が問題なわけです。

さらに言えば、例として挙げたドストエフスキーやサルトルが、それぞれ死の淵に立つ体験(前者は死刑宣告、後者は戦争)を経て小説家となったことは非常に示唆的です。人は死に直面すると人間の存在自体を、いわば存在の輪郭を見つめるようになります。優しさや教養といった人間の内面は、死を前にしては無価値だからです。

トラヴィス=歩く矛盾?

そう考えると、『タクシードライバー』の主人公トラヴィスの価値観を少し理解することができます。つまり、彼はタクシーという密室の中から外の街を即物的に眺めている。中身には興味がない。

トラヴィスの視線の先を、スコセッシのカメラは執拗に追い続けます。時にスローモーションを用いながら、フォトジェニックに映し出される人々。それは、たしかに静物写真のようにも感じられます。

ところが、こうしたトラヴィスの価値観はある倒錯を招いてしまうことになります。彼は選挙事務所で働く女性・ベツィに接近し、大胆にアプローチします。「君はひとりぼっちだ。君の周りには大勢の人がいて、デスクは電話や書類でいっぱいだが何の意味もない」

ベツィに教養があり、政治の仕事に携わっていることなど彼には無関係です。彼が見抜いたのは、ベツィが孤独な人間であるということ。ここでも「存在」そのものに目を向けているわけです。

するとどうなるのか。たしかに彼女の気を引くことはできたかもしれません。しかし、トラヴィスはベツィをポルノ映画館に連れ込むというヘマを犯してしまう。政治的な人物である彼女に、どういうわけか性教育映画を見せてしまうのです。

彼と同じようにベツィも孤独を感じていたのかもしれませんが、その内面は明らかに相違していました。そのことをトラヴィスは理解できなかったわけです。

実のところ、この事実は最初のデートの時から示唆されていたことです。カフェで話をするベツィは、トラヴィスに向かってクリス・クリストファーソンの曲(「The Pilgrim: Chapter 33」)を引用するのでした。

彼は預言者で麻薬の売人、半分は本当で半分は虚構。歩く矛盾なのさ。

トラヴィスという男は、まさにこの「歩く矛盾」であるといえます。矛盾というのは、同一の存在でありながら、その本質において異なっているということ。この差異こそが彼にとっては耐えがたく、不眠の原因となっているのです。

タクシーに乗り込んでくる二人

トラヴィスはタクシーの窓から存在の輪郭を目で追います。スティル写真でも撮るかのように、夜のマンハッタンと、その歩道を歩くゴロツキや娼婦たちの輪郭を捉えようとするのです。

このまま何も起きなければ、トラヴィスは矛盾を抱えた存在として孤独な一生を送っていたかもしれません。ちょうど『地下室の手記』や『嘔吐』の主人公がそうであったように、物語は何の進展もないままエンドクレジットを迎えていたかもしれない。

しかし、不意に変化が訪れます。彼のタクシーに乗り込んできたのは、売春で稼ぐ少女アイリスと、大統領候補者のパランタイン議員でした。

トラヴィスにとってタクシーの車内は自分の領域であり、身体の延長のようなものでした。そこに二人の正反対の人間が入り込んでくる。一人はトラヴィスが嫌うゴロツキの世界に身を置き、もう一人はトラヴィスには理解できない政治の世界に身を置いている。

先ほど述べたベツィが、トラヴィスのタクシーの乗客とはならなかった事実は重要だと思います(最終的には乗客となるのですが、ネタバレになるので伏せておきます)。トラヴィスはベツィの内面を知ることもなくフラれてしまいますが、アイリスとパランタイン議員は違います。タクシーの乗客となった二人を、トラヴィスは内面も含めて見ようとする。

アイリスに対しては、今の生活に満足していると語る彼女の内面に、逃げ出したいという本心を読み取ります。一方のパランタインに対しては、反戦や社会変革を掲げる政治演説の裏に、腐敗したこの街を何も変えられないという空々しさを感じている。

もちろん、二人の本音はそうではないかもしれません。アイリスは本当にヒモ男との生活に満足していたかもしれませんし、パランタインは本気でニューヨークを変革してくれたかもしれない。しかし、トラヴィスは二人の「本質」を少なくとも"見抜こうと"試みた。ベツィの本質を捉えなかった陰気な若者、トラヴィスにしては大きな成長なわけです。

映画の後半、かの有名なトレーニングの場面を経て、トラヴィスは身体的にも精神的にも変貌を遂げます。その結果として衝撃的な事件が起きるのですが、クライマックスは皆さんの目で確かめてみてください。

次に観るのは:ロング・グッドバイ(1973年)

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マーティン・スコセッシと同じく、ロバート・アルトマンもアメリカン・ニューシネマを代表する監督のひとりです。この『ロング・グッドバイ』では、レイモンド・チャンドラーの小説を大胆に改変したことで知られています。

往年のチャンドラーファンからは非難を浴びましたが、アルトマン版の主人公フィリップ・マーロウには"ヤバい"魅力が書き足されているように思えます。そのトリッキーな人間性は『タクシードライバー』のトラヴィスにも通じるものがあるはず。U-NEXTで観ることができるので、関連作品として挙げておきます。