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【おすすめ】グザヴィエ・ドラン監督まとめ&全作品ガイド

恋をしているとき、僕は視線を求めている。いつも絶対に満足できないのは、僕が見ている場所から、君が僕に視線を向けてくれないことだ。

『胸騒ぎの恋人』

2009年のカンヌに颯爽と現れた新星、グザヴィエ・ドラン。彼を形容する言葉として、いったい何が相応しいでしょうか。「若さ」は一過性のものでしかありませんし、「天才」は月並みで、むしろ凡庸さの象徴でもあります。「母親」や「同性愛」といった言葉も、やはり一面的な推断であるように思えてなりません。

ケベックという独自の文化が根付いた土地に生まれ、幼少期から子役として活躍。目で盗み取った技術をもとに、あくなき挑戦によって19歳で処女作を世に送り出した映画界の逸材です。以降も生き急ぐかのように新作を発表し続け、30歳を迎えた現在、そのフィルモグラフィーはすでに8本。すべてが色彩音楽の見事な調和、ポップでロマン主義的な詩情にあふれており、第7芸術としての映画を地で行くような傑作ばかりです。

おそらく、そんなドランの作品に対する最大の形容句は「私の目を見なさい」という一文に集約されます。「私の、目を、見なさい」という発語。それはドランにとって愛の告白にも似た機能を果たしています。言ってみれば、それは発語であると同時に行為であり、あらゆる人々に向けた宣言なのです。

それはけっして稚拙なナルシシズムなどではなく、この世界に絶対の普遍性をもたらすため、その静かな革命のための、たったひとつのスローガンにほかなりません。

グザヴィエ・ドランの経歴

1989年、グザヴィエ・ドラン(Xavier Dolan)はカナダ・ケベック州モントリオールに生まれました。父は俳優でシンガーソングライターのマヌエル・タドロス。母は地元の予科大学に勤めるジュヌヴィエーヴ・ドラン。ただし、両親はグザヴィエが2歳の時に別れており、幼少期は祖母と一緒に過ごすことが多かったようです。

カナダで著名だった父の影響を受け、彼は8歳の時から子役として活躍します。テレビシリーズのほか、ケベックに拠点を置くドラッグストアチェーンのCMに出演しており、当時からお茶の間で広く知られる存在でした。一方、撮影のため学校は休みがちになり、親元を離れ寄宿学校にも通っています。

また、彼は吹き替え声優として150以上の作品を担当しました。『ハンガー・ゲーム』(12~15年)のピータ・メラークや、『ハリー・ポッター』(01~11年)のロン・ウィーズリー、さらに『トワイライト』(08~12年)のジェイコブ・ブラックなど、数多くの作品でケベック版(フランス語)の吹き替えを務めています。

その後、彼は映画俳優として着実にキャリアを積んでいきます。2006年には、エチエンヌ・デロジエ監督の『鏡』に出演。ベルリン国際映画祭にも出品されたこの短編で、彼は思春期の少年が性に目覚める姿を繊細な感性で演じました。さらにパスカル・ロジェ監督の傑作ホラー『マーターズ』(08年)にも端役で出演し、映画監督への道を切り開いていきます。

その師とも呼べる人物が、彼の親戚にあたる映画批評家のオディール・トレンブレでした。彼女のはからいで、グザヴィエ・ドランは15歳の頃から試写会に足を運び、映画制作の技術を目で養うことになります。

さらに、トレンブレの勧めを受け、彼はマルグリット・デュラスやロラン・バルトなどの文学、フランソワ・トリュフォーやクシシュトフ・キェシロフスキ、ルキノ・ヴィスコンティといった映画に触れることに。なかでもジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』(93年)には大きな衝撃を受けたと、後の彼は話しています。

そして19歳のとき、彼は『マイ・マザー』の製作に取りかかります。吹き替えの仕事で稼いだ金をすべてつぎ込み、それでも足が出た分を補うため、ケベック文化産業促進公社(SODEC)に企画を持ち込みます。一度は断られますが、あきらめずに40万ドルの出資を受けることに成功し、執念で完成へとこぎつけたのです。

グザヴィエ・ドランを読み解くキーワード

女性賛美:社会で戦う人々を描き出す

『マイ・マザー』で華々しいデビューを飾ったグザヴィエ・ドランの作品に、「母」の形象を認めることは造作もない話です。当の処女作で愛憎劇の中心となったシャンタル(アンヌ・ドルヴァル)をはじめ、『胸騒ぎの恋人』で放縦な生活を送る女性デジレ(こちらもアンヌ・ドルヴァル)、『わたしはロランス』で息子のジェンダーに戸惑うジュリエンヌ(ナタリー・バイ)。さらに『Mommy/マミー』では、処女作とは一転、息子に惜しみない愛情を注ぐ女性ダイ(またもアンヌ・ドルヴァル)の姿が描かれました。

実際、幼少期から思春期にかけて、グザヴィエ・ドランの周囲には複数の女性がいました。母、継母、祖母、叔母、教師。彼女たちの頼もしい背中を見て育ったドランが、映画を通して女性を賛美することは自然な帰結であるといえますし、彼自身も「いつまでも女性のシネアスト(映画人)でありたい」と過去に話したことがあります。「女性は同性愛者に似ている。(異性愛者の)男性によって作られた社会空間に、順応しなければならないからだ」とも。

しかし、だからといって、ドランの作家性が「母性」に存するかといわれると、それは少し留保したほうがよさそうです。また別のインタビューで、ドランは自分の映画を母親の主題で見られることに若干の不満を漏らしていました。彼女たちは「母」である前に「女」であり、どんな困難にも立ち向かっていく逞しくも孤独な人間なのだと、そう語るわけです。

父の不在:切り離される愛の形象

たしかに、「母性」という言葉を「包み込む力」として定義するならば、それをドランのフィルモグラフィーに当てはめることは困難を極めます。むしろ事情は正反対で、彼の描く物語は父性、つまり「切り離す力」で溢れているように思えてなりません(これらの定義に関しては、ユングの分析心理学を参考にしています)。

憎悪の裏返しとしての愛情を向けられながらも、一人息子と離れて暮らすことを決断する「マイ・マザー」、三角関係の危ういバランスが崩れ落ち、ついに決定的な断絶を生み出してしまう「胸騒ぎの恋人」たち。突き刺すような社会の視線を跳ね除け、しかし恋愛においては不幸な結末を迎える「ロランス」・アリア。さらにADHDの障害を持つ我が子に愛情を注ぐ「マミー」は……。もう充分でしょうか。そこに通底しているのは、対象を包み込むどころか、反対に切り裂いてしまう愛にほかならないのです。

この特徴は、ドランと同じ女性映画のシネアスト、ペドロ・アルモドバルと比較してみることで、よりいっそう際立ちます(あるいは、日本人なら成瀬巳喜男でしょうか)。スペインの巨匠であるアルモドバルも、『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)を代表とする多くの作品で、逞しく生きる女性の姿を描いてきたことで知られています。しかし、その作風はドランと対照的。いくつかの作品を観れば、そこで描かれている愛が母性的な「包み込む力」に溢れていることに気がつきます。両者の作品を比べれば、ドランの作品がいかに刺々しく痛ましい愛を描いているか、明瞭に理解することができるはずです。

(同性)愛:クィアの特殊性から普遍性へ

グザヴィエ・ドランは同性愛者です。本人は特に隠し立てをすることもなく、15歳の頃には家族もその事実を周知していました。17歳のときに出演した『鏡』は、経歴の項でも触れたように同性愛の関係を描いた作品ですが、この撮影でも彼は監督に包み隠さず自分の経験を話していたといいます。

ほとんどのドラン作品において、性的マイノリティの人物が描かれることは紛れもない事実です。とはいえ、その作品を「クィア映画」と呼称するのは控えておきましょう。『わたしはロランス』がカンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞(LGBTIの主題を扱った作品に贈られる)を受賞した際、ドランは激しくこのセレモニーを批判しました。クィア・パルムという賞自体がマイノリティへの差別を助長していると、そう言ってみせたわけです。「これはゲイによって作られた映画だからゲイ映画なのだと、そう言わんばかりの「ゲットー化」と「追放」の賞を与えることに、いったい何の意味があるんだ?」と。

この事件は、LGBTIコミュニティからの批判的意見も含め、大きな論争を呼びました。問題点を整理しておけば、ドランの主張は、これまで「クィア映画」や「レズビアン・ゲイ映画」と呼ばれてきたジャンルの系譜を、その最終段階へと押し進めるものです。つまり「クィア映画」というジャンルの本来的な目標は、その言葉が完全に意味を失ったときにはじめて達成される、ということになります。

社会的マイノリティが、みずらのマイナー性、あるいはその特殊性を武器として戦ってきた段階が終わり、今度はその普遍性が希求される段階へ入ったという確かな感覚が、彼にはあったのでしょう。『私はロランス』の劇中で主人公が発した台詞。「私の目を見なさい」というその言葉が、ドランの強い意志をどこまでも体現しているように思えます。

グザヴィエ・ドラン監督作品ガイド

個別ページで各作品の詳細情報とあらすじ、解説を読むことができます。

マイ・マザー(2009年)

作品のポイント
憎悪と愛情が混在する母子の関係を詩的に描き、若干20歳にしてカンヌの地を踏んだ衝撃のデビュー作。

カンヌ国際映画祭の監督週間に出品され、20歳にして衝撃的なデビューを果たしたドランの処女作です。彼は16歳の時に執筆した小説を下敷きに、夢を実現するための資金集めに奔走しました。キャストのアンヌ・ドルヴァルやフランソワ・アルノ―、スザンヌ・クレマンといった面々は、すべてドランが声をかけたケベックの映画人です。

フランソワ・トリュフォー監督の長編デビュー作『大人は判ってくれない』を彷彿とさせる物語であり、方々にその反響を聴き取ることができるはず。その一方で、人物をフレームの端に寄せて親子の対立を強調させたり、ミュージックビデオ的なイメージや背面からのスローモーションを要所で使用したりと、斬新で大胆な印象も受けます。

こうした技法が単なる実験の域に留まるのではなく、物語に一定の演出効果を与えているあたり、ドランの早熟な才能を感じずにはいられません。

胸騒ぎの恋人(2010年)

作品のポイント
ゲイとストレートの男女がひとりの美青年に恋焦がれる。親友から恋敵に変わった二人と、思わせぶりな男の目線が交わる瞬間。

前作から間髪いれずに撮影された第2作。物語は親子の垂直性から三角関係の水平性へと発展し、鮮やかな才能はここでも如才なく発揮されます。ドランより2歳年上の俳優、ニール・シュナイダーが圧倒的な存在感を放っているほか、モニア・ショクリのレトロな風貌にも目が釘付け。

前作の参照先が『大人は判ってくれない』であるとすれば、本作のそれは同じくトリュフォー監督の『突然炎のごとく』(62年)といえるかもしれません。ヌーベルヴァ―グ(フランスで50年代末から始まった映画運動)がそうであったように、即興的な演出が随所で用いられ、三角関係の危うい緊張感を引き立ててくれます。

わたしはロランス(2012年)

作品のポイント
自分を取り戻すため、ある日「彼」は「彼女」になることを決める。ジェンダーに対する偏見と戦う女性と、それを支える恋人の普遍的なロマンス。

カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門に出品された大作です。トランスジェンダーの悩みを抱えたロランスの懊悩と叫声、その強靭な意志が不滅の輝きを見せます。伏し目がちの社会に対して、はっきり「私の目を見なさい」と言い放つ彼女の神々しさ。

目まぐるしく変転する世界観は、ややもすれば度を越したキッチュと受け止められかねませんが、ドランの色使いはあくまでも統制されています。そこにはクィアの特殊性ではなく、その普遍性を希求するドランの確固たる信念があらわれているのでしょう。

また、本作でもミュージックビデオ的なイメージが活用され、ポップな音楽と映像、そして詩が相乗的に重ねられます。それは「第7芸術」としての映画を新時代に昇華させた、ひとつのメルクマールと呼べるかもしれません。

トム・アット・ザ・ファーム(2013年)

作品のポイント
これまでとは一転、冷たい色調でサスペンスの境地へと切り込んだ野心作。恋人の喪に服す都会の青年が、ケベックの田舎で出会った静かな狂気。

ドラン初の試みとして、すでに原作のある物語の映像化です。もとになったのはカナダを代表する劇作家、ミシェル・マルク・ブシャールの書いた同名戯曲。終始にわたって重苦しい雰囲気が漂う、狂気のサスペンスが展開されます。

作風だけでなく、製作スタッフにも変化が加わりました。音楽のガブリエル・ヤレドはレバノン出身の作曲家。ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手に逃げろ/人生』(79年)から映画音楽を手掛けている大家で、本作でも緊迫感のあるオーケストラを書き上げています。撮影のアンドレ・トゥルパンはケベック出身で、ドランとは次回作以降もタッグを組み、様々な化学反応を起こしていきます。

円熟した、という言葉が相応しいかもしれません。というより完熟味を帯びています。張り詰められた糸は寸毫たりとも緩むことがなく、演者たちの目線が、配された調度品のすべてが絶対の座標を示しています。喪に包まれた世界のなかで、亡き恋人の兄から覗く静かな暴力が私たちを脅かします。と同時に、そこには愛と狂気の奇妙な隣接関係も横たわっているのです。

Mommy/マミー(2014年)

作品のポイント
正方形の画面に映し出される、母と子の尽きない愛情。多動性障害を抱えたスティーヴの夢は、どんなフレームにも収まらない。

ドランの良き友人でもあるアンヌ・ドルヴァルを、ふたたび物語の中心に据えて制作された作品。彼女が演じる母親ダイと、その息子でADHDの障害を抱えるスティーヴの関係が描かれます。カンヌ国際映画祭では審査員賞を受賞。

一般的な映画で用いられる画面アスペクト比は、1.85:1(ビスタサイズ)もしくは2.35:1(シネマスコープ)です。対する本作では1:1(正方形)が採用されています。このトリッキーな試みが効果をもたらしていることは間違いなく、人物のクロースアップがより際立って見えます。これはカメラを例にとると分かりやすいのですが、フレームが長方形の場合、被写体を中央に置くとどうしても違和感が生じるはず(三分の一の法則)。この違和感を気にせず人物を映し出せる点で、正方形のフレームには確かな利点があるのです。

もちろん、変則的な技法には困難も伴います。それを可能にしたのは、監督のドランや撮影のアンドレ・トゥルパンだけでなく、傑出した役者陣による面も大きいでしょう。先に挙げた二人もさることながら、隣人の女性カイラを演じたスザンヌ・クレマンの、傷だらけの視線と絞り出される吃音。スティーヴの目と言葉が多動していく世界のなかで、彼女はミューズの輝きを放って物語を牽引していきます。

たかが世界の終わり(2016年)

作品のポイント
予定された「死」を告げるため、男は12年ぶりに家族のもとへと帰郷する。最後の食事は耐えがたい悲劇の裂け目を作り出すのだった。

『トム・アット・ザ・ファーム』に続く原作のある脚本で、夭逝したフランスの劇作家、ジャン=リュック・ラガルスの戯曲が下敷きになっています。カンヌ国際映画祭ではグランプリを受賞。

主人公の劇作家を演じたギャスパー・ウリエルを筆頭に、マリオン・コティヤールレア・セデゥなど粒揃いのキャスティング。ガブリエル・ヤレドによるサウンドトラックと、「恋のマイヤヒ」を始めとするポップ・ミュージックの挿入が、いつにも増して作品を重層化しています。

わずか一日に起きる出来事のなかで、幾度となく家族の視線が遊動し、交錯したかと思えば虚空に向けられます。私たちはただ息を呑んで彼らの会話劇を傍観し、刻一刻と迫る破局の瞬間を待つことしかできません。にもかかわらず、ここには愛を希求する男の物語が、通奏低音のように広く響きわたっています。

ジョン・F・ドノヴァンの死と生(2018年)

作品のポイント
憧れのスターとの文通を果たした少年。二つの時代を行き来するなかで、物語は「真実」の残酷な輪郭を浮かび上がらせる。

初の英語作品。幼少時代のドランは、『タイタニック』のレオナルド・ディカプリオに憧れ、彼にファンレターを送ったといいます。その時の思い出を下敷きに、夭折したアメリカ人俳優に関する物語を構想しました。『ゲーム・オブ・スローンズ』(11~19年)で知られるキット・ハリントンが主演を務めています。

マティアスとマクシム(2019年)


2019年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された最新作です。カナダではすでに上映されており、日本での公開も2020年9月に予定されています。

主人公はマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)とマキシム(グザヴィエ・ドラン)の二人。気の置けない親友が、映画の撮影でキスシーンを演じたことをきっかけに、お互いを意識し始めることになります。

【MV】College Boy/Indochine(2013年)


アンドシーヌはフランスのロック・バンド。1981年に結成され、国内のニュー・ウェイヴを牽引する存在として人気を集めました。90年代には長い低迷期を経験しますが、2001年の新作アルバムでメディアに返り咲くことに。結成40周年を前にした現在でも、依然として精力的な活動を行っている国民的バンドです。

彼らとドランが最初にコラボしたのは、『胸騒ぎの恋人』のラストシーンでした。そこで流れたのがアンドシーヌの「第三の性」。後にアンドシーヌ側からの提案で、ドランは新曲「カレッジ・ボーイ」のミュージック・ビデオを手がけることになります。撮影を担当したのは、以降ドランの右腕となるアンドレ・トゥルパン。主演を務めるのは、後に『Mommy/マミー』で主演を務めるアントワーヌ・オリヴィエ・ピロンです。

内容は見ての通り。白黒で正方形の画面に、ひとりの少年が同級生から苛烈な虐めを受ける光景が映し出されます。彼に救いの手を差し伸べる者はどこにもなく、それどころか、最後には目隠しをした大人たちまでもが加虐者に味方することになります。

公開後、すぐにCSA(視聴覚高等評議会)によって規制がかけられ、15歳以下は視聴不可に。動画サイトでも一時は非公開の状態が続いていました。

ドランのフィルモグラフィーを語る上では、 暴力の偏在性宗教的なモチーフを描いた点で特筆に値します。

【MV】Hello/Adele(2015年)


イギリス出身の世界的歌手、アデル。彼女は以前からドラン作品のファンだったようで、新曲のミュージック・ビデオのためにコンタクトを取ります。敬愛するディーヴァからの連絡に驚いたドランでしたが、すぐにこれを引き受け、ケベックでの撮影が行われました。後の『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』では、冒頭のシーンでアデルの新曲「Rolling in the Deep」が使用されています。

こちらも内容はご覧の通り。アデル本人が演じる女性が、部屋に置いてある電話を手に取ります。その相手はおそらく昔の恋人(『新ビバリーヒルズ青春白書』のトリスタン・ワイルズが演じています)であり、別れの記憶がフラッシュバックするなか、涙を流しながら受話器に耳を当て続けるのです。

過去の記憶が蘇るという点では、2016年の『たかが世界の終わり』への繋がりを感じさせます。また、スマホではなく固定電話が登場しているのも見逃せない点です。考えてみれば、ドランの映画には同様のアナクロニズムが散見され、ある種の美学を形成しています。手紙などはその最たる例で、『マイ・マザー』の教師は主人公に遠方から近況を知らせ、『トム・アット・ザ・ファーム』の亡き恋人が遺した手紙は、あわや母にとって危険な秘密を明かすことになるのです。

グザヴィエ・ドラン作品を鑑賞する方法

当ブログで解説に用いたのは以下のサービスです。

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マイ・マザー
胸騒ぎの恋人
わたしはロランス
トム・アット・ザ・ファーム
Mommy/マミー
たかが世界の終わり
グザヴィエ・ドラン バウンド・トゥ・インポッシブル

参考文献

Xavier Dolan-L'indomptable, Laurent Beurdeley, Éditions du CRAM, 2019.